新東宝(読み)しんとうほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新東宝」の意味・わかりやすい解説

新東宝
しんとうほう

映画会社。1946年(昭和21)年11月、第二次東宝争議の最中、大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)、長谷川一夫(はせがわかずお)、入江たか子山田五十鈴(やまだいすず)、藤田進(ふじたすすむ)(1912―1990)、黒川弥太郎(くろかわやたろう)(1910―1984)、原節子高峰秀子山根寿子(やまねひさこ)(1921―1990)、花井蘭子(はないらんこ)(1918―1961)による「十人の旗の会」のスターと、斎藤寅次郎(さいとうとらじろう)らの監督やカメラマンなど400名余りのスタッフが組合を脱退した。彼らの映画製作の場として、また、ストライキのために製作機能が低下した東宝の配給網を維持するため、1947年3月に、資本金をはじめ、スタジオや機材も東宝が提供するかたちで、株式会社新東宝映画製作所が設立された。翌1948年には、元東宝の佐生正三郎(さしょうしょうざぶろう)(1898―1971)を社長に迎え、株式会社新東宝となった。新東宝が製作した作品の配給をめぐって、東宝と新東宝との間で訴訟が起きたりもしたが、1950年3月には東宝から独立した。1950年代なかばにかけて、『小原庄助(おはらしょうすけ)さん』(清水宏監督、1949年)、『おかあさん』(成瀬巳喜男(なるせみきお)監督、1952年)、『大阪の宿』(五所平之助(ごしょへいのすけ)監督、1954年)、『たそがれ酒場』(内田吐夢(うちだとむ)監督、1955年)などの秀作が送り出された。1955年、大蔵貢(おおくらみつぎ)(1899―1978)が社長に就任してからは、戦記もの、怪談、エロ・グロものなど、低予算の娯楽路線に徹し、なかでも、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)が明治天皇に扮した渡辺邦男(わたなべくにお)(1899―1981)監督の『明治天皇と日露大戦争』(1957)は大ヒットした。中川信夫(なかがわのぶお)(1905―1984)監督の『東海道四谷怪談』(1959)などのように、長くカルト的人気を保つ作品も生まれた。大蔵社長の時代には、天知茂(あまちしげる)(1931―1985)、高島忠夫(たかしまただお)(1930―2019)、宇津井健(うついけん)(1931―2014)、久保菜穂子(くぼなおこ)(1932― )、三原葉子(みはらようこ)(1933― )、三ツ矢歌子(みつやうたこ)(1936―2004)、前田通子(まえだみちこ)(1934― )、高倉(たかくら)みゆき(1934― )らが活躍した。1960年前後から経営が悪化し、1960年に大蔵社長が辞任し、1961年に新東宝は倒産した。製作機能と作品の著作権は国際放映株式会社が受け継いだ。

[佐藤 武]

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世界大百科事典(旧版)内の新東宝の言及

【東宝[株]】より

… 第2次世界大戦終了と同時に,東京宝塚劇場は進駐軍によって接収され,アーニー・パイル劇場と名を変え,以後約10年間日本人は立入禁止だった。また映画部門では,46年10月から50余日にわたる第1次争議が起こり,スターの大半は第3組合を結成して47年3月新東宝を設立した(1961年映画製作を中止)。5年に及ぶ紛争のため再建不能とまでいわれたが,50年からようやく映画製作も軌道にのり,黒沢明成瀬巳喜男豊田四郎稲垣浩らの監督陣による優れた作品を輩出した。…

【日本映画】より

… 東宝では1946年から48年にかけて労働争議の嵐が吹き荒れ,砧の撮影所は製作中止と再開を繰り返した。その間,47年,新東宝映画製作所が分裂,誕生し,世田谷成城の東宝第二撮影所と第三撮影所(元東京発声)で映画製作を始め,48年,株式会社新東宝となって,両撮影所を東宝から譲渡され,東宝,松竹,大映,東映と並ぶ大会社として映画製作をつづけたが61年に倒産した。新東宝の撮影所は国際放映となり,テレビ映画の製作に乗り出した。…

※「新東宝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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