新橋村
にいはしむら
[現在地名]御殿場市新橋
東田中村の南西に位置する。集落は本村と鮎沢に分れ、ほかに南東部に野中新田があり、村の西寄りを南北に矢倉沢往還が通る。中世には鮎沢御厨のうちで、当地の鮎沢を中世の鮎沢宿、また「吾妻鏡」などに散見する藍沢・藍沢原の遺称地とする説もある。
〔中世〕
応永二九年(一四二二)八月一八日大森頼春(道光)は「あゆさわのミくりやの内新はしの内たけの内さいけ田一町」を二岡神社の神宮寺梵篋寺覚智院の聖天の灯明田として寄進している(「大森頼春寄進状」二岡神社文書)。年未詳の未年の八月一二日の広基判物(武藤文書)によると、広基なる人物が神山の武藤三郎に「新橋之内神山有之田地百性職」を認め、一貫文の年貢を免除している。永禄八年(一五六五)五月八日には葛山氏元が富士山に派遣した警固衆の兵糧に「新橋当暮之年貢」を充てることを須走関所(現小山町)や富士山の警備にあたっていた芹沢伊賀守に命じている(「葛山氏元朱印状写」判物証文写)。
新橋村
しんばしむら
[現在地名]松山町新橋
標高五二〇・三メートルの飯盛峰(宮田山)西方に広がる。東は松山郷泰野村、西は志布志郷月野村(現大隅町)、大隅国囎唹郡末吉郷岩崎村(現末吉町)、北は同郷南之郷村(現同上)、南は志布志郷伊崎田村(現有明町)。北東部を日向都城を起点に南之郷村坂元から、当村狩川を通り泰野村・尾野見村を経て志布志郷へと向かう道が走り、狩川地区には一里塚が築かれていた(日向地誌・松山町郷土史)。西端を大田尾川(菱田川)が南へ流れ、中央部を北から南に流れる八段田川(松尾川)・山角川と村の南部で合流する。これらの河川沿いに水田が広がる。中世には日向国諸県郡志布志郷に属していたが、文禄元年(一五九二)泰野村・尾野見村とともに松山郷として分離したとされる(日向地誌)。
新橋村
につぱしむら
[現在地名]富里町新橋
尾上村(現酒々井町)の西に位置。北は佐倉牧の一つ内野牧、南は柳沢牧、高崎川両岸を村域とする。印東庄のうちで、平安時代末期の下総国印東荘郷司村司交名(醍醐寺本醍醐雑事記七・八裏文書)に「新橋朝原清里」とみえる。寛永一九年(一六四二)の年貢割付状(新橋観音堂文書)によると佐倉藩領で、幕末まで同藩領。ただし切添新田は幕府領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二八六石余。享保一六年(一七三一)に新田検地が行われ、名請人数二四(うち他村からの入百姓九)、改出高一九石余(新橋区有文書)。
新橋村
につぱしむら
[現在地名]浜松市新橋町
堤村の北、東海道の南側に位置。永禄一〇年(一五六七)二月二九日の今川氏真判物(大通院文書)に「浜松庄新橋郷」がみえ、今川氏真は同郷の大通院ダイツウイン(現臨済宗方広寺派)に定書を下している。同年八月五日には今川氏真が鈴木重時・近藤康用に三河国吉河(現愛知県新城市)の替地として「引間領之内新橋郷」などを与えた(「今川氏真判物」鈴木重信氏所蔵文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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