志布志郷(読み)しぶしごう

日本歴史地名大系 「志布志郷」の解説

志布志郷
しぶしごう

現志布志町域を中心に、現有明ありあけ町と、現大隅町の一部を占める。

〔中世〕

中世の志布志はほぼ現在の志布志町ちよう・志布志にあたるとみられ、救二くに院内で志布志条という単位を構成し、現夏井なつい、帖のうち益倉ますくらもそのうちに含まれていた(正平一四年一月一一日「伴基栄寄進状写」大慈寺文書)。正和五年(一三一六)一一月三日の沙弥蓮正打渡状(旧記雑録)には「日向方嶋津御庄志布志津」とある。志布志津は現在のまえ川河口部にあったと考えられ、島津庄政所のあった現宮崎県都城市からは最も近い港で、平安時代より島津庄の要港として発展をみていたものと推定される。建仁三年(一二〇三)以降島津庄日向方惣地頭職を得た北条氏にとっても重要拠点であったと考えられる。前掲打渡状で志布志津に寺地を与えられた宝満ほうまん寺が北条氏の勢力伸張とともに教線を拡大した西大寺流律宗(叡尊教団)寺院であることはその証左である。南北朝期には前川河口近くの西岸に志布志城(松尾城)が築かれ、新田義貞方肝付氏の与党の籠る同城は、建武三年(一三三六)一月二九日に北朝方の軍勢によって攻略された(同年二月日「重久篤兼軍忠状」旧記雑録など)。その後北条氏被官と推定される楡井頼仲懐良親王に先立って薩摩入りした三条泰季に応じて南朝方となり、一時勢力を誇ったが(貞和四年六月日「島津貞久書下」旧記雑録など)、観応二年(一三五一)八月一三日志布志城を攻略されて退き(同年八月日「禰寝清種軍忠状」禰寝文書など)、延文二年(一三五七)一月籠城していた救二郷胡麻崎ごまがさき(現大崎町)を攻略され、討死した(同年五月日「禰寝重種軍忠状」同文書)。ただし志布志城に拠っていたところを落とされ大慈だいじ寺で自刃したと記す史料もある(「山田聖栄自記」など)。頼仲を排したのち志布志に入った畠山直顕は足利直冬方、さらには足利尊氏方となって、大隅守護奥州家島津氏の氏久らと戦い、貞治四年(一三六五)頃志布志城を去った(同書)。なお正平一三年(一三五八)には肥後菊池武光が志布志にまで至っている(同年一二月二日「菊池武光禁制写」大慈寺文書)

直顕退去以降志布志は奥州家島津氏の本拠地となり、島津氏久は松尾まつお城に隣接するうち(志布志城)居城に定めた(三国名勝図会)。特筆すべきは氏久が明に遣使を送っていることで(「明史日本伝」洪武七年七月条)、背景に良港志布志津と禅寺大慈寺の存在があったものと推察される。明の書物である「籌海図編」「日本一鑑」にも志布志は港として記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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