新道村
しんどうむら
麻生口村の南、塩津道に沿う。敦賀へ三里、近江塩津(現滋賀県伊香郡西浅井町)へ二里の位置にある山間の宿場。「太平記」巻一七(金崎城攻事付野中八郎事)に「小笠原信濃守ハ、信濃国ノ勢五千余騎ヲ率シテ、新道ヨリ向フ」とあり、この「新道」を「敦賀郡誌」は当村とするが、現南条郡今庄町新道とする説もある。「敦賀志」は「此村ハ深坂より追分へ出し官道ヤミて、今の新道野街道やや開け初けん頃、奥麻生より出たる成べし、(中略)されども六、七百年も前の事成へし」とその成立を推定する。新道集落より一キロほど南、国境近くに小字新道野がある。
新道村
しんどうむら
[現在地名]今庄町新道
藤倉山(六四三・五メートル)の南麓、日野川の支流鹿蒜川の北岸にあり、北陸街道(西近江路)に沿う。東は帰村、西は上流大桐村。「源平盛衰記」巻二八に、燧城攻めの源氏の軍勢が敦賀より「井河、坂原、木辺山を打登り、新道に懸りて還山まで連たり」とみえる。また「太平記」巻一七には、敦賀の金ヶ崎城を攻めるため、「小笠原信濃守ハ、信濃国ノ勢五千余騎ヲ率シテ、新道ヨリ向フ」とあるが、この新道は現敦賀市の新道とも考えられる。
新道村
しんどうむら
[現在地名]柏崎市新道
南は黒滝村・貝淵村、北は上方村。鵜川中流両岸に集落を形成する。明治三三年(一九〇〇)三諦寺裏山の経塚から出土した経巻中に、建仁三年(一二〇三)一〇月八日銘で「宇川御庄新堂所内安楽寺」とみえる。天文八年(一五三九)一二月一三日の長尾定景とみられる者の当地鵜川神社宛の安堵状(鵜川神社文書)に「新堂条」とみえる。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)には「上条新道」とみえる。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に新道村高七八八石余、樋ヶ詰村高五〇一石余とあるのが当村にあたる。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高二八六石八斗余のほかに新田三ヵ所計一〇〇石一斗余がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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