日出湊(読み)ひじのみなと

日本歴史地名大系 「日出湊」の解説

日出湊
ひじのみなと

[現在地名]日出町日出

日出城の東方、同城下東端の入江にある湊で、日出藩にとって深江ふかえ湊とともに重要な役割を果した。天文二〇年(一五五一)ポルトガル船が豊後に着いたが、そのことを記すバルトリ「イエズス会の歴史」(アジア篇)に「ポルトガル船は、豊後の首都、府内から一レグア離れた日出Figi港に碇泊していた」とある。この船の船長はバスコ・ダ・ガマの子ドバルテ・ダ・ガマで、このことを知ったフランシスコ・ザビエルは滞在していた周防山口から陸路日出に向かった。日出に到着したザビエルは府内に招かれ大友義鎮と対面、その後ガマの船で日本を去った(同書)。この頃の日出湊は干潟の多い府内の湊の外港として繁栄していた。なおこの時期の日出湊は江戸時代の日出湊とは場所が異なり、青柳あおやぎ浜のこととする説がある。天正八年(一五八〇)と推定される八月一三日の大友円斎(義鎮)書状(予陽河野盛衰記)には「日出津」とみえ、大友氏に重要視されていた湊の一つであった。この頃に問丸が発達していたか否か不明だが、慶長六年(一六〇一)二月には日出浦の井上惣左衛門が、細川忠興家臣魚住氏から「日出浦之出ふね・入ふね、其外之とい(問)之儀」を申付けられている(同月三〇日「魚住某問職補任状」武内文書)

慶長六年四月木下延俊が日出に入封するが、その頃日出湊を含む一帯はま村とよばれ、東部は北浜、南部は南浜とよばれていた。同年中に築城と城下建設が始まり、浜村も城地に取込まれ、湊も改修された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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