ザビエル(読み)ざびえる(英語表記)Francisco Xavier

デジタル大辞泉 「ザビエル」の意味・読み・例文・類語

ザビエル(Francisco Xavier)

[1506~1552]日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン宣教師。聖人。イグナティウス=デ=ロヨラとともにイエズス会を創設。1549年(天文18)鹿児島に上陸し、以後2年間、九州・中国・近畿の各地で伝道。52年、中国への伝道の途次広東カントン付近の上川島で没。シャビエル

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ザビエル」の意味・読み・例文・類語

ザビエル

  1. ( Francisco Xavier フランシスコ━ )[ 異表記 ] シャビエル スペインの宣教師、聖人。イエズス会創立に参加し、一五四一年以降インドゴアを中心に布教。天文一八年(一五四九)鹿児島に上陸、平戸・山口・京都・豊後などで伝道。中国布教への途上、広東(広州)沖の上川島で病死。(一五〇六‐五二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザビエル」の意味・わかりやすい解説

ザビエル
ざびえる
Francisco Xavier
(1506―1552)

キリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。

 1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、1534年、同志とともにモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、1540年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、1541年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。

 ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から1547年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウアンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。

 1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(さつま)(鹿児島県)、平戸(ひらど)(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺(さかい)に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がないのを悟る。落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆(おおうちよしたか)を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご)(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮(よししげ))に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)。遺骸(いがい)は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。

[松田毅一 2018年2月16日]

『ラウレス著、松田毅一訳『聖フランシスコ・ザヴィエルの生涯』(1948・エンデルレ書店)』『吉田小五郎著『ザヴィエル』(1959/新装版・1988・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「ザビエル」の解説

ザビエル

没年:1552.12.3(1552.12.3)
生年:1506.4.7
東洋の使徒・世界布教保護の聖人と仰がれ,日本にキリスト教を伝える。ピレネー山脈西南部ナバラ王国(1515年スペインに併合)出身のバスク人。19歳のとき,パリ大学の聖バルバラ学院に学ぶ。1534年8月モンマルトルの聖堂でイグナティウス・デ・ロヨラらと清貧・貞潔・聖地巡礼などの誓願を立てイエズス会創設の一歩を記す。1540年ポルトガル国王ジョアン3世の要請でリスボンに派遣され,翌年「教皇聖下の使節」の資格で同地を発ち,1542年5月ゴアに到着。インド人改宗に重点をおき,このためインドの文化・習慣を尊重してインドへの適応化に努め,マラバール語やタミール語の祈祷書と教理書を編集し,幼児教育を重視して各地に学校を作って現地人の文化向上に寄与した。植民地政府と相いれず,総督など役人の不正を糺弾し国王の宣教活動に対する不熱心を批判した。 その関心は次第に東方に移って,1545年マラッカに至り翌年モルッカ諸島に布教。1547年12月マラッカで薩摩(鹿児島県)出身のアンジローに会い日本開教の希望を抱いてポルトガル人船長アルヴァレスに「日本報告」作成を依頼し情報収集に努める。アンジローをゴアに招いて聖信学院に学ばせ日本語の教理書を編集。1549年4月ゴアを出帆し同8月15日(天文18年7月22日)鹿児島に上陸。同10月16日(同11月5日)にインドに送った長文の手紙は大書翰といわれ,滞在2カ月半の間に見聞収集した情報を報じた。ヨーロッパに日本を体系的に紹介した最初の報告として各国語に翻訳され,版を重ねて日本研究の貴重な素材となった。鹿児島では島津貴久に謁し福昌寺住職忍室と交わり同地で100人ほどの信者を得た。平戸,山口を経て天文19(1550)年12月入洛したが,京都市中が荒廃し天皇の地位が失墜しているのをみて,所期の目的である天皇から布教許可を得て仏教寺院の学僧と宗論することを断念し11日間で離京して山口に戻り,大内義隆に正式に謁して布教許可を得,布教活動の基礎を作った。翌年8月大友宗麟の招きで豊後府内(大分市)に赴き,後継者トルレスに布教方針を授けてポルトガル船でゴアに帰還した。日本布教のためには中国を無視できず翌1552年広東付近の上川島に至ったが熱病にかかり病死した。1622(元和8)年聖人に挙げられる。 現存する書翰は137通,書翰を通じて各地の同僚を指導した。日本に来る宣教師には仏僧との論争に備えて最高の学問を修め科学知識を身につけることを要求した。日本帰りのザビエルに会ったフロイスは後年彼を完璧な男と評した。近世史上,ザビエルほど多くの伝記が書かれた人物はいないとされる。大正9(1920)年大阪府茨木市の千提寺で発見されたザビエルの肖像画は現在神戸市立博物館が所蔵。<参考文献>G.Schurhammer, J.Wicki《EPISTOLAE S.FRANCISCI XAVERII》vol.2,河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』

(五野井隆史)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ザビエル」の意味・わかりやすい解説

ザビエル
Francisco de Xavier
生没年:1506-52

スペイン人のイエズス会士。ナバラ王国のザビエルに生まれる。バスクの血をひく父母はともに王国の名門で,父は王国の要職を歴任し,枢密院議長も務めた。1512年親フランス政策をとるナバラの首都パンプロナはカスティリャ軍に占領され,ザビエル一家は離散し,父と兄2人はフランスに亡命,父は3年後に死亡した。フランシスコは母と姉たちと王国にとどまり,苦難の幼少年時代を過ごした。21年兄ら王国の旧臣は首都奪回を企てて失敗した。このとき首都を守るカスティリャ側に軍人イグナティウス・デ・ロヨラがおり,この戦いで重傷を負ったことを転機に宗教家の道を歩むことになる。25年ザビエルは19歳でパリ大学に入学し,30年に修士号を取得,講師として哲学,ラテン語を教えるかたわら,アリストテレスの哲学を研究し,将来は故国に戻り高位聖職者になることを考えていた。だが,のちにパリに来たロヨラとの出会いは,ザビエルの運命を変え,34年ロヨラを中心として創設された新修道会イエズス会に同志の一人として参加した。41年,東インド布教にイエズス会士の登用を決めたポルトガル国王の要請に応じ,ザビエルは教皇使節の肩書でインドに赴いた。42-48年までインド半島沿岸,セイロン島,マラッカ,モルッカ諸島にまで精力的に布教旅行を行った。47年12月マラッカで日本人アンジローと出会ったことから日本行きを決意した。49年(天文18)8月トレス,フェルナンデス,アンジローらと来日し,51年11月まで2年3ヵ月滞在した。この間鹿児島,平戸,山口,京都,豊後を訪問して日本開教の目的を果たし,1000名内外を改宗させた。日本滞在中,中国改宗の必要性を感じ,52年単身で中国へ向かったが,上陸目前にして上川島で没した。東洋布教開拓のパイオニアとしての功績は大きく,1622年列聖され,1927年〈カトリック布教の保護聖人〉とされた。祝日12月3日。岩波文庫に《聖フランシスコ・ザビエル書翰抄》を収める。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ザビエル」の意味・わかりやすい解説

ザビエル

日本最初のキリスト教伝道者。ザビエー,ザベリヨ,シャビエルなどとも。インドおよび日本への使徒。スペインのナバラ地方,バスク系貴族のエチェベリーア家に生まれ,パリ大学に留学中ロヨラを知り,イエズス会創立に参加。ポルトガル王ジョアン3世の依頼で,1541年リスボンからインド布教に出発,1542年ゴアに着き,南インド,マレー半島,モルッカ諸島に布教。日本人アンジロー(ヤジロー)を知り,その案内で1549年(天文18年)C.deトレス,J.フェルナンデスを伴い鹿児島に上陸,島津貴久に謁見,同地に10ヵ月滞在。平戸(ひらど),山口を経て京都にのぼったが,布教の目的を達せず,山口に行って大内義隆に会い,さらに豊後(ぶんご)で大友宗麟に会って布教。1551年豊後を出帆してインドへ向かい,翌年広東(カントン)の上川(カンチュアン)島に上陸,中国本土布教を目ざしたが,熱病に冒され病没。遺体はゴアに移され,のち右腕はローマに送られた。1622年列聖。1904年〈世界の伝道事業の保護者〉と定められた。
→関連項目ゴアの教会群と修道院群宣教師トレス日本史ビリヨンフロイス

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザビエル」の意味・わかりやすい解説

ザビエル
Xavier, Francisco de Yasu y

[生]1506.4.7. ナバラ
[没]1552.12.3. 広東沖,上川島
スペイン,バスク地方出身のイエズス会士。東洋布教に努め,日本に初めてキリスト教を伝え,東洋の使徒といわれた。パリに学び,ここでイグナチウス・デ・ロヨラに会い,熱心な信仰を得て,ロヨラら6人とともにイエズス会を結成,1537年司祭となる。ポルトガル王の要請で東インドに派遣され,1542年ゴアにいたり,同地でポルトガル人信徒の指導,現地住民の改宗のために働く。 1545~46年マラッカ,モルッカ諸島,アンボン,モロタイなどに赴く。 1547年末マラッカで日本人ヤジロウ (アンジロウ) に接し,日本布教の重要性を悟り,1549 (天文 18) 年7月3日鹿児島に到着,7月 22日 (新暦の8月 15日) に上陸した。滞在2年余のうちに平戸,山口,京都などで布教,500人以上に洗礼を授けた。ゴアに帰ったザビエルは,鎖国下の中国布教を企て,広東 (広州) 港外の小島で入国の機会を待っている間に熱病にかかり死去。 1622年聖人に列せられ,1927年には世界布教保護聖人とされた。祝日は 12月3日。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「ザビエル」の解説

ザビエル
Francisco de Xavier

1506.4.7~52.12.3

日本にキリスト教を伝えた宣教師。ピレネー山脈西南部ナバラ王国(現,スペイン)の王族の子として生まれる。9歳のときナバラ王国は滅亡。1534年イグナティウス・デ・ロヨラらとともにパリでイエズス会創立につながる誓願をたてた。39年ポルトガル国王ジョアン3世の請をうけて,41年インドに向けてリスボンを出発。47年マラッカで薩摩国生れのヤジロウに出会い日本開教を志す。49年(天文18)7月22日ヤジロウらとともに鹿児島に上陸。50年12月上京。荒廃した京都をみて天皇による布教許可を断念,山口の大内義隆に謁し,大友宗麟の招きで豊後国へ赴く。51年インドに帰り,52年広東付近の上川島で熱病により没。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ザビエル」の解説

ザビエル
Francisco de Xavier[ポルトガル],Yasu y Javier[スペイン]

1507~52

バスク地方ナバラのザビエル城に生まれ,パリで学ぶ。1534年イグナシオ・デ・ロヨラに会い,イエズス会を創立した。反宗教改革に尽くし,42年以来インド,東インド諸島に布教,47年日本人アンジローに会い,49年鹿児島にきた。日本各地(鹿児島,平戸,山口,豊後府内)に初めてキリスト教を伝え,中国布教を企てて果たさず,広東付近の上川島で死んだ。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ザビエル」の解説

ザビエル Xavier, Francisco

1506-1552 スペインの宣教師。
1506年4月7日生まれ。ナバラ王国の貴族の子。1534年イグナチウス=デ=ロヨラらとともにイエズス会をおこす。インド,モルッカ諸島で布教。マラッカであった日本人アンジローの案内で,天文(てんぶん)18年(1549)鹿児島に上陸,日本にはじめてキリスト教をつたえた。平戸,山口,豊後(ぶんご)などで2年あまり伝道。インドにもどり,さらに中国をめざすが1552年12月3日広東港外で病死。46歳。パリ大卒。シャビエルともよむ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「ザビエル」の解説

ザビエル
Francisco de Xavier

1506〜52
スペインのイエズス会宣教師
イエズス会創立者の一人で,1549年日本人アンジローの案内でインドのゴアから鹿児島に到着。領主島津貴久に謁し,初めてキリスト教を伝えた。平戸・山口を経て上京,再び山口に帰り大内義隆の保護をうけ,豊後府内の大友宗麟に謁して,'51年,滞在2年3か月で離日。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ザビエル」の解説

ざびえる

大分県大分市、ざびえる本舗が製造・販売する銘菓。バターをきかせたビスケット生地の皮でラムレーズン入りの白餡を包んだ焼き菓子。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ザビエル」の解説

ザビエル

フランシスコ=ザビエル

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のザビエルの言及

【アンジロー】より

…人を殺害して逮捕される寸前にポルトガル商人ジョルジェ・アルバレスに助けられ,日本脱出に成功。アルバレスの紹介で,1547年12月マラッカにおいてザビエルに会った。アンジローの才知はザビエルに感銘を与え,彼の来日のきっかけをつくった。…

【イエズス会】より

…耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。
[創立と精神]
 イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ,A.サルメロン,S.ロドリゲスとともに,1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて〈貞潔・清貧・エルサレム巡礼〉の悲願をたてた。36年同日の誓願更新にあたって,さらに3人の友C.ル・ジェ,J.コデュール,P.ブロエが加わった。…

【キリシタン】より

…同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることをめざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。…

【キリスト教】より

…イエズス会は各地でプロテスタントに対抗しただけでなく,〈神の栄光のために〉の一念をもって海外に多くの布教師を送り,この点ではプロテスタントに一歩先んじた。日本伝道のザビエル,中国伝道のマテオ・リッチ,インド伝道のノビリRoberto de Nobili(1577‐1656)などが著名である。反宗教改革としていま一つ重要なのは,1545年12月に開かれて,63年12月まで3期にわたってつづいたトリエント公会議である。…

【ゴア[州]】より

…彼はムスリム王の都市を破壊し,リスボンを模してゴア(古ゴア)を建設し,ここをポルトガルのアジアにおける交易とキリスト教伝道の根拠地とした。42年にはフランシスコ・ザビエルも来訪し,ここから日本までの伝道に乗り出していった。天正少年遣欧使節の伊東マンショたちも,往路の83年と帰路の87年に訪れた。…

※「ザビエル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android