キリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。
1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、1534年、同志とともにモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、1540年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、1541年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。
ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から1547年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。
1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(さつま)(鹿児島県)、平戸(ひらど)(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺(さかい)に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がないのを悟る。落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆(おおうちよしたか)を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご)(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮(よししげ))に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)。遺骸(いがい)は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。
[松田毅一 2018年2月16日]
『ラウレス著、松田毅一訳『聖フランシスコ・ザヴィエルの生涯』(1948・エンデルレ書店)』▽『吉田小五郎著『ザヴィエル』(1959/新装版・1988・吉川弘文館)』
(五野井隆史)
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スペイン人のイエズス会士。ナバラ王国のザビエルに生まれる。バスクの血をひく父母はともに王国の名門で,父は王国の要職を歴任し,枢密院議長も務めた。1512年親フランス政策をとるナバラの首都パンプロナはカスティリャ軍に占領され,ザビエル一家は離散し,父と兄2人はフランスに亡命,父は3年後に死亡した。フランシスコは母と姉たちと王国にとどまり,苦難の幼少年時代を過ごした。21年兄ら王国の旧臣は首都奪回を企てて失敗した。このとき首都を守るカスティリャ側に軍人イグナティウス・デ・ロヨラがおり,この戦いで重傷を負ったことを転機に宗教家の道を歩むことになる。25年ザビエルは19歳でパリ大学に入学し,30年に修士号を取得,講師として哲学,ラテン語を教えるかたわら,アリストテレスの哲学を研究し,将来は故国に戻り高位聖職者になることを考えていた。だが,のちにパリに来たロヨラとの出会いは,ザビエルの運命を変え,34年ロヨラを中心として創設された新修道会イエズス会に同志の一人として参加した。41年,東インド布教にイエズス会士の登用を決めたポルトガル国王の要請に応じ,ザビエルは教皇使節の肩書でインドに赴いた。42-48年までインド半島沿岸,セイロン島,マラッカ,モルッカ諸島にまで精力的に布教旅行を行った。47年12月マラッカで日本人アンジローと出会ったことから日本行きを決意した。49年(天文18)8月トレス,フェルナンデス,アンジローらと来日し,51年11月まで2年3ヵ月滞在した。この間鹿児島,平戸,山口,京都,豊後を訪問して日本開教の目的を果たし,1000名内外を改宗させた。日本滞在中,中国改宗の必要性を感じ,52年単身で中国へ向かったが,上陸目前にして上川島で没した。東洋布教開拓のパイオニアとしての功績は大きく,1622年列聖され,1927年〈カトリック布教の保護聖人〉とされた。祝日12月3日。岩波文庫に《聖フランシスコ・ザビエル書翰抄》を収める。
執筆者:岸野 久
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1506.4.7~52.12.3
日本にキリスト教を伝えた宣教師。ピレネー山脈西南部ナバラ王国(現,スペイン)の王族の子として生まれる。9歳のときナバラ王国は滅亡。1534年イグナティウス・デ・ロヨラらとともにパリでイエズス会創立につながる誓願をたてた。39年ポルトガル国王ジョアン3世の請をうけて,41年インドに向けてリスボンを出発。47年マラッカで薩摩国生れのヤジロウに出会い日本開教を志す。49年(天文18)7月22日ヤジロウらとともに鹿児島に上陸。50年12月上京。荒廃した京都をみて天皇による布教許可を断念,山口の大内義隆に謁し,大友宗麟の招きで豊後国へ赴く。51年インドに帰り,52年広東付近の上川島で熱病により没。
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1507~52
バスク地方ナバラのザビエル城に生まれ,パリで学ぶ。1534年イグナシオ・デ・ロヨラに会い,イエズス会を創立した。反宗教改革に尽くし,42年以来インド,東インド諸島に布教,47年日本人アンジローに会い,49年鹿児島にきた。日本各地(鹿児島,平戸,山口,豊後府内)に初めてキリスト教を伝え,中国布教を企てて果たさず,広東付近の上川島で死んだ。
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…人を殺害して逮捕される寸前にポルトガル商人ジョルジェ・アルバレスに助けられ,日本脱出に成功。アルバレスの紹介で,1547年12月マラッカにおいてザビエルに会った。アンジローの才知はザビエルに感銘を与え,彼の来日のきっかけをつくった。…
…耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。
[創立と精神]
イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ,A.サルメロン,S.ロドリゲスとともに,1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて〈貞潔・清貧・エルサレム巡礼〉の悲願をたてた。36年同日の誓願更新にあたって,さらに3人の友C.ル・ジェ,J.コデュール,P.ブロエが加わった。…
…同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることをめざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。…
…イエズス会は各地でプロテスタントに対抗しただけでなく,〈神の栄光のために〉の一念をもって海外に多くの布教師を送り,この点ではプロテスタントに一歩先んじた。日本伝道のザビエル,中国伝道のマテオ・リッチ,インド伝道のノビリRoberto de Nobili(1577‐1656)などが著名である。反宗教改革としていま一つ重要なのは,1545年12月に開かれて,63年12月まで3期にわたってつづいたトリエント公会議である。…
…彼はムスリム王の都市を破壊し,リスボンを模してゴア(古ゴア)を建設し,ここをポルトガルのアジアにおける交易とキリスト教伝道の根拠地とした。42年にはフランシスコ・ザビエルも来訪し,ここから日本までの伝道に乗り出していった。天正少年遣欧使節の伊東マンショたちも,往路の83年と帰路の87年に訪れた。…
※「ザビエル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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