日指村(読み)ひさしむら

日本歴史地名大系 「日指村」の解説

日指村
ひさしむら

[現在地名]山香町日指

野原のはる村の西、鳥屋とや岳北麓の八坂やさか川上流域の谷間に位置する。北部の重永しげなが集落の北に大村おおむれ(四一八・六メートル)がある。近世初期の当村は見地みじ中山なかやま下河内しもこうちひがし迫田さこだ助田川内すけたごうち徳常とくつね立石たていしふせさき板垣いたがきふち松永まつなが西福寺さいふくじ尾崎おさき米山こめやま小杉こすぎ梅田うめだ長田ながた桑原くわばら永畠ながはたのつと日蔵ひぐら徳永とくなが辰口たつぐち細工屋さいくやひら薄原すすきばるいちつぼひらくらかやくわの三一の小村から構成されていたが、寛永三年(一六二六)貫井ぬくい村の内から尾花おばな・重永が加わり三三ヵ村となった(図跡考)

〔中世〕

日差村と記し、日差庄ともみえる。豊後国弘安図田帳に「日差村三十町 大炊判官代太郎頼元法名道仏、当国住人日差左エ門後家論之」とある。頼元は田北頼元であり、日差左衛門は異本によると惟忠といい、「惟」の字を使用しているところから山香郷司大神氏の一族である可能性が高い。日差村の開発領主の子孫と推定される。嘉禎二年(一二三六)三月一七日の大友寂秀(親秀)譲状(大友家文書録)によれば「豊後国田北村地頭職 日差庄地頭職」が、大友親秀から三男観音丸(田北親泰)に譲られているが、この所領は親秀が父大友能直から譲られたものであると記されている。田北氏の所持した日差村関係文書目録と思われる年月日未詳の田北某文書預ケ状(同文書録)に「一通 定家状 永万二年七月日」とあり、この定家は平安時代末期の山香郷司大神貞家とみられる。以上のことから大友氏は大神氏・日差氏が所有していた当村の開発領主権を自らの地頭職のなかに取込み、それが前掲図田帳に田北氏と日差氏の相論として記されたのであろう。日差村は田北親泰から頼元へ伝えられたと思われ、貞和二年(一三四六)正月一四日の田北氏所領文書目録(田北一六文書)によれば、文永六年(一二六九)六月六日の親泰譲状や永仁三年(一二九五)三月一八日の頼元譲状が存在したことが知られる。観応三年(一三五二)九月二〇日の平(田北)泰直の譲状写(同文書)では、親父大炊又太郎入道道賢と本領主から譲りを受けた日差村などの地頭職を嫡子孫太郎氏直に譲っている。大友田北系図(田北隆信蔵)によれば親泰と頼元の間に「三浦義村」が加えられており、前掲の文書目録には三浦義村から相伝した所領があるので、三浦氏との関係から田北泰直が平姓を称したと考えられる。


日指村
ひさしむら

[現在地名]作東町日指

田原たはら村の北に位置し、承応二年(一六五三)同村から分郷したという(東作誌)正保郷帳では田原村の内。寛政四年(一七九二)美作国中領地分に村名がみえる。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は蓮花寺れんげじ村と同様。「東作誌」によれば高二三八石余、毛付高は田八一石余・畑一〇四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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