日本歴史地名大系 「日指村」の解説
日指村
ひさしむら
〔中世〕
日差村と記し、日差庄ともみえる。豊後国弘安図田帳に「日差村三十町 大炊判官代太郎頼元法名道仏、当国住人日差左エ門後家論之」とある。頼元は田北頼元であり、日差左衛門は異本によると惟忠といい、「惟」の字を使用しているところから山香郷司大神氏の一族である可能性が高い。日差村の開発領主の子孫と推定される。嘉禎二年(一二三六)三月一七日の大友寂秀(親秀)譲状(大友家文書録)によれば「豊後国田北村地頭職 日差庄地頭職」が、大友親秀から三男観音丸(田北親泰)に譲られているが、この所領は親秀が父大友能直から譲られたものであると記されている。田北氏の所持した日差村関係文書目録と思われる年月日未詳の田北某文書預ケ状(同文書録)に「一通 定家状 永万二年七月日」とあり、この定家は平安時代末期の山香郷司大神貞家とみられる。以上のことから大友氏は大神氏・日差氏が所有していた当村の開発領主権を自らの地頭職のなかに取込み、それが前掲図田帳に田北氏と日差氏の相論として記されたのであろう。日差村は田北親泰から頼元へ伝えられたと思われ、貞和二年(一三四六)正月一四日の田北氏所領文書目録(田北一六文書)によれば、文永六年(一二六九)六月六日の親泰譲状や永仁三年(一二九五)三月一八日の頼元譲状が存在したことが知られる。観応三年(一三五二)九月二〇日の平(田北)泰直の譲状写(同文書)では、親父大炊又太郎入道道賢と本領主から譲りを受けた日差村などの地頭職を嫡子孫太郎氏直に譲っている。大友田北系図(田北隆信蔵)によれば親泰と頼元の間に「三浦義村」が加えられており、前掲の文書目録には三浦義村から相伝した所領があるので、三浦氏との関係から田北泰直が平姓を称したと考えられる。
日指村
ひさしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報