田原村(読み)たわらむら

日本歴史地名大系 「田原村」の解説

田原村
たわらむら

[現在地名]四條畷市上田原かみたわら下田原しもたわら

中野なかの逢坂おうさか郷・南野みなみの村の東、生駒山地東側の標高一五〇メートル前後に立地。現大阪府域では生駒山地東部に開けた唯一の集落。讃良さらら郡に属し、江戸初期には一村であったが、のち北半が下田原村、南半が上田原村となる。北は同郡星田ほしだ(現交野市)、東は大和添下そえしも北田原村・南田原村(現奈良県生駒市)に接し、国境を天野あまの川が北流、川沿いに磐船いわふね街道が通る。逢坂峠(清滝峠)を越えて下田原を横断する清滝きよたき街道は下田原・北田原境で磐船街道と交差する。元禄二年(一六八九)当地を旅した貝原益軒は「南遊紀行」に「岩舟より入て、おくの谷七八町東に行ば、谷の内頗広し、其中に天川ながる、其里を田原と云、川の東を東田原と云、大和国也、川の西を西田原と云、河内国也、一たにの中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす、此谷水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出、ひきゝ所に流れ、天川となる、凡田原と云所、此外に多し、宇治の南にも、奈良の東にもあり、皆山間の幽谷の中なる里なり、此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也、恰陶淵明が桃花源記にかけるがごとし、是より大和歌姫の方に近し」と記す。


田原村
たわらむら

[現在地名]加西市田原町

倉谷くらたに村の東に位置し、万願寺まんがんじ川と支流下里しもさと川の合流点付近に立地する。南は印南いなみ野尻のじり新田村(現加古川市)。古くは竹原たけはらと称し、西河合にしかわい郷に属した。「加西郡誌」によると、川の合流地点に大竹林があり竹原とよばれたが、のち竹林が開拓され田になったので田原に変わったという。慶長五年(一六〇〇)網引あびき村との水論関係の中なほり定(網引町有文書)によると、竹原村庄屋善右衛門の肩書に「竹原」「たわら」の両方を用いている。慶長国絵図には「たハら村」と記載される。江戸時代は初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳)。以後南北に分郷され相給となるが、元禄郷帳など郷帳類では田原村一村で高付される。北田原村は宝永五年(一七〇八)大坂城代土岐氏領(「歳之当御条目」吉野町有文書など)、正徳二年(一七一二)大坂城代内藤氏領(同条目)、享保六年(一七二一)幕府領・姫路藩預地となり(「河川堤防争論」網引町有文書など)、同一五年大坂城代土岐氏領(同一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)、寛保二年(一七四二)上野前橋藩領となる(延享元年「戸田井村明細帳」戸田井町有文書など)


田原村
たわらむら

[現在地名]庄原市田原町

恵蘇えそ郡の南部、国兼くにかね川の北岸に位置し、北はいち村、西は本郷ほんごう村に接する。村域北端にわずかな丘陵地があるだけで、国兼川に沿って耕地が広がる。田原の地名は永徳三年(一三八三)の八幡宮放生会出米注文(山内首藤家文書)に「田原分 乃米六升」とみえる。

中世にはじび庄南部に位置し、古くは市村と一村をなしたが、嘉暦年中(一三二六―二九)に地頭山内氏により分村されたという(芸藩通志)。山内氏は荘内各地に庶子家を配し支配の強化を図ったが、当村に置かれた山内通経の子孫は田原姓を名乗り、下田原しもたわらの土居がその館跡とみられる。


田原村
たわらむら

[現在地名]大朝町田原

筏津いかだづ村の南に位置し、南西は熊城くまじろ(九八〇メートル)、南東は平家へいけ(六六五メートル)、東は加計かけ(七五二・四メートル)などの山がそびえる。北東に流れる可愛えの川の支流田原川沿いに開ける盆地に本郷ほんごう横川よこがわの集落が形成される。正和二年(一三一三)四月二〇日付の関東御教書(吉川家文書)は疑問視される史料であるが、大朝本庄のうちに「田原」がみえ、また元応元年(一三一九)一〇月三日付の吉川一心譲状(同家文書)にも、同庄内枝村のうち「堂わら」とあり、その後も大朝本庄の村落として度々史料にあらわれる。


田原村
たばるむら

[現在地名]高千穂町田原

上野かみの村の西にあり、南は五ヶ瀬川を挟み押方おしかた村。高千穂一八ヵ郷の一。観応元年(一三五〇)頃と推定される一〇月二七日の田原政信請文(阿蘇文書)によれば、田原七郎大神政信は高知尾たかちお庄田原郷四郎次郎忠政知行跡の代官職を恵良惟澄から預け置かれている。田原政信は大神姓で、三田井氏の一族とみられる。永正一三年(一五一六)四月四日の大神長武宛行状写(佐藤家文書)によれば、佐藤右馬允に新恩として「田原内ゑらの村」などを宛行っている。「ゑらの村」は恵良惟澄の所領と関係するとも考えられる。

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高五七九石余。


田原村
たはらむら

[現在地名]伊那市大字東春近ひがしはるちか 田原

殿島とのしま村の南、大沢おおさわ川以南の天竜川と大沢川の氾濫原と、田原山の山地とからなる。殿島村の古い枝村で、田原山は隣接の村々の境界が複雑に入り組んでいる。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は上、村高は「三百三拾八石三斗五升九合 田原」とある。

天竜川と大沢川の二川による洪水の多い村であったが、古くから宮田みやだ(現上伊那郡宮田村)方面から天竜川東岸への渡河点で、大沢川の谷を上って福地ふくち貝沼かいぬまを経て高遠たかとお(現上伊那郡高遠町)方面へ通ずる要路にあたっていた。


田原村
たわらむら

[現在地名]三重町上田原かみたわら

又井またい村の西、大辻おおつじ(二四九・四メートル)もと山の西麓にあり、西を大野川が北流する。対岸は岡藩領原田はらだ(現千歳村)。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には田原村と宝泉庵ほうせんあん村を合せた一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に田原村とみえ、高三八五石余、中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一六九石余・畑方二一六石余、日損所と注記される。


田原村
たばらむら

[現在地名]作手村田原・中河内なかごうち

川尻かわしり村の東北からあね川に沿い、まつ川との合流点まで耕地が広がる。この水田面の東側丘陵沿いの集落は東田原、西側の山麓沿いの集落が西田原である。東田原が本郷であり、西田原は出郷であったが、天和元年(一六八一)三月に分村して東田原村西田原村に分れた。

慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、享和二年(一八〇二)より平藩安藤対馬守領、文久二年(一八六二)幕府領に復し幕末に至る。


田原村
たわらむら

[現在地名]犬飼町田原

犬飼町の南、蛇行しながら北流する大野川西岸の河岸段丘上にある。西を蛇行しながらあかね川が北東流し、当村北部で大野川に合流する。天文三年(一五三四)九月六日の田原名坪付(五条文書)にみえる井田いだ郷田原名の遺称地。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳では井田郷に属し、田高一五三石余・畑高一四七石余、柴山有、日損所と注記される。「豊後国志」では東方大野川西岸の舞田原まいたばるを別に一村として記している。明暦二年(一六五六)までは当村東端のつる三佐みさ(現大分市)と結ぶ大野川通船の基地であったが、同年の犬飼湊築造によって当村の船着場は廃絶した(地方温故集)


田原村
たばるむら

[現在地名]宮之城町田原

広瀬ひろせ村の西、あな(金山川)の流域にある。永享四年(一四三二)二月二二日の原田房次寄進状答院記)に「田原内田ほりまち一段」とみえ、明怡禅尼三十三年忌までの弔料として興全こうぜん寺に寄進された。同六年八月日の権少都快弁新開田証文案(同書)によれば、快弁の代に新開された「田堤上下」のうちに前述の田原の寄進田があり、快弁新開田との境は、万一の時は下柳田の溝淵川原の田溝の淵にある松を目標にすると定められた。


田原村
たばるむら

[現在地名]小長井町 田原名たばるみよう新田原名しんたばるみよう

小川原浦おがわはるうら村の北西に位置する。文治年間(一一八五―九〇)に開墾され、当初以来の数家が存続しているという。永禄元年(一五五八)伊佐早西郷氏によって田原溜池が造成され、小川原浦・井崎いざきまきなど六〇町余を灌漑したが、これに伴い新たに形成されたのが新田原名とされる(小長井町郷土誌)。江戸時代は諫早いさはや郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。


田原村
たばらむら

[現在地名]川崎町田原

河崎かわさき村の北に位置する。村内西寄りを北流する中元寺ちゆうがんじ川は、北の池尻いけじり村との境で西に流れを変える。元和八年人畜改帳では高九一九石余、家数九七・人数一九一(うち百姓二一・名子三三)、牛三四・馬一九。宝永四年(一七〇七)の田川郡本田郡鑑(猪膝手永中村家文書)では高九二一石余。郷村高帳では高一千三四九石余、うち新田高二三四石余。嘉永五年(一八五二)の田川郡各手永戸口調(糸田町史)では家数九八・人数四六五、池七、馬一五・牛七〇。


田原村
たばるむら

[現在地名]植木町豊岡とよおか

平原ひらばる鈴麦すずむぎ両村の南、西は船底ふなそこ村に接する。もと船底村は当村のうちで、木葉このは川の谷を境に玉名たまな二俣ふたまた(現玉東町)に接していた。村内西部を高瀬たかせ往還が通り、四里木と田原坂がある。大五輪塔に「田原寺 院主□□ 右志者為往生極楽頓生菩提造立如件 建治三一月廿六日」と刻され、村名を冠した田原寺があった。同塔の傍らには天正一三年(一五八五)銘の板碑があり、現在の田原坂公園内には大永七年(一五二七)の逆修碑がある。


田原村
たわらむら

[現在地名]高野口町田原

紀ノ川中流域左岸の洪積台地上にある村で、東は吉原よしはら(現橋本市)、南は北名古曾きたなごそ、西は上中かみなか下中しもなかの諸村。貞永元年(一二三二)七月一六日の僧真慶門弟等処分状(宝寿院文書)に「金剛峯寺政所河北方田原村谷東地事」とあり、中世は高野山領官省符かんしようふ庄上方に属する村で、応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)によると、当時の田数は一二町四反三一〇歩、畠数七反九〇歩、在家二九宇(下地一町三反半四〇歩)であった。


田原村
たわらむら

[現在地名]落合町田原

旭川東岸にあり、平地が多く開け東部は低丘陵地となっている。南は西原にしばら村、東は赤野あかの村。古代大庭おおば郡田原郷(和名抄)、中世田原庄の遺称地とされる。貞応三年(一二二四)の官中便補地由緒注文案(壬生家文書)に、当時他人知行所々として田原庄とあり、本領主三野頼延より伝領した小槻隆職が多年知行し、元暦二年(一一八五)宣旨で子孫相伝が認められている。


田原村
たばるむら

[現在地名]南関町はら

小岱しようだい(五〇一・四メートル)の北東麓に位置し、東は柿原かきばる村・坂下さかのした村、北はいま村、西は宮尾みやのお村、南は上田原かみたばる村と接する。天正一〇年(一五八二)七月二八日の龍造寺政家宛行状(小代文書)に「玉名郡之内田原三町」がみえ、柿原などとともに小代氏に宛行われている。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田二五町九反余・畠屋敷一六町五反余・屋敷筆数一一、分米四〇一石三斗余。近世は南関手永に属する。「国誌」に「里俗下田原村ト云、五郎丸田吹丸徳丸村馬場村等小村アリ」とある。南田原村・上田原村が分村する(郡村誌)


田原村
たわらむら

[現在地名]塩川町大田木おおたき

大木おおき村の西、にごり川の岸に位置する。慶徳組に属し、濁川を挟んで西は新宮しんぐう(現喜多方市)。村の南を阿賀川が西流する。古くは西大木と称していた。天文一二年(一五四三)に新宮熊野社(現喜多方市)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の取組第二番・同六番に西大木とみえ、後筆で「今、田原」との注記がある。元亀三年(一五七二)七月一三日の富田氏実書状(新編会津風土記)に「新宮・田原問答之河原」などとあり、当村と新宮村との間で濁川の河原をめぐって境相論が生じていた。富田氏実が新宮村領主平田左衛門と当村領主平田弾正の仲立ちをして濁川の河原地は当村のものとするが、同所の利用は新宮・当村両村の入会とするという調停を行っている。


田原村
たばるむら

[現在地名]益城町田原

東は小谷おやつ村、西は寺中じちゆう村と接する。天福二年(一二三四)二月一一日の津守保作田人給注文写(阿蘇家文書)に愛万・清・主元の預分三町七反一丈内に「田原り一坪六反一丈内 二坪四反四丈 三坪三反三丈 四反四丈」、薬万免一町一反一丈の内に「田原り五坪三反 六坪二反 一所一反散在弥次」とあり、里に地名を冠した条里が実施されていた。「国誌」に「寺中村ノ内 田原村」とあり、近世は沼山津手永に属した。文化八年(一八一一)の沼山津手永略手鑑では、高六一四石余、田一二町六反八畝余・畑二一町七反一畝余で、商札・藍瓶本手各二、揚酒本手・桶屋・石工札・水車各一がある。


田原村
たばらむら

[現在地名]富津市田原

六野むつの村の南に位置し、みなと川支流の志駒しこま川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四八〇石。正保国絵図でも同高。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。元禄郷帳では高四九六石余で、幕末も同様。宝永七年(一七一〇)から再び佐貫藩領で、幕末に至る(正徳二年「阿部正鎮領知目録」阿部家文書など)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数六〇で、同年の田二三町二反余・畑一四町八反余、人数二八七、農間に男は薪取、女は糸取を行っていた(椙山家文書)


田原村
たわらむら

[現在地名]江津市川平町平田かわひらちようひらた

那賀郡南東部、江川下流部左岸にあり、右岸の長良ながら村に対する。北は南川上みなみかわのぼり村、西は平床ひらとこ村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では南川上村のうちに含まれる。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では「南川上村ヘ入ル」と肩書され、「田原・芦山村」として高二〇四石余と記載される。人口は延享三年(一七四六)二七五人・文化八年(一八一一)三八〇人・慶応四年(一八六八)三九四人(浜田藩跡市組の人口)


田原村
たばるむら

[現在地名]竹田市九重野くじゆうの

緩木ゆるぎ川に沿い、北東は長迫ながさこ村、南西は久小野ひさおの村。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。弘化物成帳では九重野組のうち、村位は中、免六ツ二分、田四二石余(三町九反余)・畑六二石余(一一町余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はほとんどなく、開畑一石余(一町八反余)がある。


田原村
たわらむら

[現在地名]松阪市田原町

大津おおつ村の西にあり、村域の西部を名古須なこす川が、東部を金剛こんごう川が流れる。「神鳳鈔」に記される「手原御薗」は当地にあたるといわれ、中世には伊勢神宮領が成立していたと考えられる。「地誌取調書」(神宮文庫蔵)には「古時手原ト称シ大津村ノ枝郷タリシガ、中興田原村ト称シ独立セル」とある。同書によれば、貞治四年(一三六五)仁木義長の押領するところとなり、伊勢守護が代々領したが、永享年中(一四二九―四一)以降北畠氏の支配下になったとされる。中世を通じて神戸かんべ六郷に属した。沢氏古文書(内閣文庫蔵)永正八年(一五一一)一一月一四日条に「たはら」「田原」の地名がみえ、田原馬公事、田原米や人夫役といった記載もみられる。


田原村
たばるむら

[現在地名]大分市田原

大分川の右岸沖積地帯に位置し、北東は小野津留おのづる村、北は同川を隔てて国分こくぶ村。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高三九四石余、横瀬村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると本高三九四石余・出来高三斗余、田高二一四石余・畑高一七九石余。正保郷帳では稙田わさだ庄に所属。


田原村
たはらむら

[現在地名]小倉南区田原一―五丁目・田原新町たはらしんまち一―三丁目・津田つだ四―五丁目・津田新町つだしんまち四丁目・西貫にしぬき二丁目・上貫かみぬき一丁目

中曾根なかそね村の西、竹馬ちくま川の右岸にある。「たわら」とも。宝永三年(一七〇六)の検地帳(企救郡誌)では田畠四一町二反余。郷村高帳では高五四五石余、うち新田高一七六石余。幕末の各村覚書では本高三六九石余、田二八町八反余・畠二町三反余、物成一九五石余、竈数四四・人数二〇一、牛二七・馬三。


田原村
たわらむら

[現在地名]大宇陀町大字田原

上片岡かみかたおか村西方に位置する。慶長郷帳にみる村高三九八・一二石。近世初頭、幕府領(代官角南主馬)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となる。同藩の二割半無地高増政策で村高は四九七・六五石となる。延宝七年(一六七九)以降幕府領(代官国領半兵衛)に編入された。村高の増加について延宝九年、田原村の大庄屋彦左衛門は、国内の他の幕府領なみに夫米(一〇〇石につき三石)を取りやめるよう訴状を代官所に提出した。しかし訴えは、寛保三年(一七四三)検地奉行神尾若狭守により退けられ、増高は確認されることになった。


田原村
たばるむら

[現在地名]宇目町南田原みなみたばる 田原

中津留なかづる村の西、中岳なかだけ川の支流田原川沿いに位置。正保郷帳に村名がみえ、田高二七九石余・畑高九一石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高二九六石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は下、免六ツ四分(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)


田原村
たばるむら

[現在地名]那覇市田原たばる一―四丁目・田原

小禄うるく村の西にある。絵図郷村帳・琉球国高究帳・「琉球国由来記」のいずれにも村名はみえない。由来記に小禄うるくノ殿での稲穂祭に堀川大屋子・田原大屋子両名が神酒・麦・仙香など供物を捧げるとあり、間切集成図によると堀川ふつちやー村の北に村名と集落が描かれる。同村との境界は不明。尚穆王四二年(一七九三)まで小禄・堀川・田原の三ヵ村は一人の掟役が管掌してきたが、田原夫地頭の病気辞職を機に新たに田原掟を設置し田原・堀川二村を所管させたという(球陽)


田原村
たはらむら

[現在地名]作東町田原

山城やましろ村の北に位置し、北に承応二年(一六五三)当村から分郷した日指ひさし村がある。貞和四年(一三四八)九月頃寂室元光が田原村に遊び、詩を作ったという(寂室録)。正保郷帳に村名がみえ、田一九八石・畑一四四石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一一二石余・開高一〇石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は蓮花寺れんげじ村と同様。


田原村
たわらむら

[現在地名]宮津市字田原

現宮津市の最北部に位置し、伊禰いね日出ひで(現与謝郡伊根町)から日出川に沿って上り、峠を越えた盆地状の地にある。西北へ田原川沿いに下り、たに厚垣あつがきを通って筒川つつかわ菅野すがの(現与謝郡伊根町)に道が通じる。

慶長検地郷村帳に一七三・五七石「田原村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で二〇〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)


田原村
たばらむら

[現在地名]浜田市佐野町さのちよう

佐野村の西方に位置し、南は後野うしろの村、北は宇津井うつい村。津和野藩領で、宝永石見国郷村帳によると高五一石余。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)には村名がみえないが、同五年の領地石高目録(石津亀井記)には地方分田原村として高五一石余が記され、ただし寺社領替地、古田大膳内石田十左衛門勝長兵衛手形と注記されている。明治四年(一八七一)の万手鑑によると古高五一石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一一二石余、明治四年時の惣高一一九石余で反別一五町七反余、家数一四(うち本百姓九)・人数七九、牛一二、紙漉船一〇・鉄砲四。


田原村
たわらむら

[現在地名]彦根市田原町

上西川かみにしがわ村の南東に位置し、愛知川旧河道の自然堤防上に立地。慶長三年(一五九八)七月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に村名がみえ、同所の高四八二石余が浅野氏に与えられている。慶長高辻帳では高四八六石余。彦根藩成立時から文久元年(一八六一)まで同藩領、同二年幕府領となる。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば人数三〇七、うち寺社方一。「木間攫」に産土神は子安地蔵堂とある。安置されている地蔵尊は鎌倉期の一尺五寸の木仏で安産の霊験あらたかという。


田原村
たわらむら

[現在地名]志賀町田原

松木まつのき村の南西、五里峠ごりとうげ山塊の北東麓にある山村。米町こんまち川支流田原川流域の小支谷に集落を形成。元和六年(一六二〇)の検地高一七六石(「六拾四ヶ村明細記」安成寺文書)。正保郷帳では田原・長田ながた両村で高三〇八石余、田一六町四反余・畑四町一反余、免三ツ八厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一八一石、免四ツ五歩、新田高六石、小物成は山役四〇目・苦竹役一匁、鳥役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)


田原村
たわらむら

[現在地名]岩国市大字田原

にしき川の北岸、多田ただ村の西に位置する小村。行政的には近世を通じて対岸の御庄みしよう村に属し、村としての独立は明治七年(一八七四)である。寛文八年(一六六八)の「古村記」にも御庄村の小名としてみえるが、対岸であったため一般には独立村なみにも扱われ、元禄年間(一六八八―一七〇四)の「根笠紀行」には「団欒たる御庄の両子山、田原の蕎麦は岸畔を照し、持国の蕪菁は水滸を繞る」と叙される。


田原村
たのはるむら

[現在地名]日向市美々津町みみつちよう

上別府かみのびゆう村の西、耳川と石並いしなみ川に挟まれて位置する。児湯こゆ郡に属し、江戸時代は高鍋藩領。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえる。同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高一五石余。野別府代官川北庄屋の支配であったが、天明二年(一七八二)川北庄屋河辺久兵衛の願出により支配地が三分され、高松名主の支配地になった(続本藩実録)


田原村
たばらむら

[現在地名]岡山市田原

菅野すがの村の西、ささ川上流の標高およそ五〇メートルの高原台地上にある。文明三年(一四七一)の備前一宮神事等注文(吉備津彦神社文書)に田原村とみえる。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二四二石余。「備陽記」によると田畠二三町余、家数四七・人数三一八。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高三三四石余、蔵入と家臣三名の給地。


田原村
たばるむら

[現在地名]竹田市飛田川ひだがわ

稲葉いなば川流域、山手やまて村の対岸にある。直入なおいり郷田原名の遺称地。正保郷帳では飛田郷に属し、田方四一石余・畑方二四石余。弘化物成帳では飛田組のうち、村位は下、免九ツ、田四二石余(四町四反余)・畑二五石余(五町四反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑五斗余(八反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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