日蔵(読み)にちぞう

改訂新版 世界大百科事典 「日蔵」の意味・わかりやすい解説

日蔵 (にちぞう)
生没年:905?-985?(延喜5?-寛和1?)

平安中期の僧。三善氏吉の子,清行の弟。初め道賢と名のり,後に日蔵と改めた。冥途に行った後蘇生した人として知られるが,生没年をはじめ確実なことはわかっていない。《扶桑略記》に引用されている〈道賢上人冥途記〉によれば,日蔵は12歳で出家して金峰山の椿山寺や東寺で修行した。941年(天慶4)金峰山で無言断食の修行中,8月1日に息絶えたが,執金剛神の化身と名のる僧が現れ,冥府六道に導かれた。日蔵はそこで太政天神となった菅原道真と,地獄で苦しむ醍醐天皇の姿を見,地上の天皇への伝言を受け,帰路を教えられて同月13日に蘇生したという。日蔵に関する説話は,《本朝神仙伝》《北野天神縁起》《宝物集》《十訓抄》などにあり,易筮,声明(しようみよう),管絃に優れ,強い験力を持つ行者として伝えられているが,それらは菅原道真の怨霊を恐れた時代に広まり,後に地獄蘇生譚の典型として伝えられた。
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朝日日本歴史人物事典 「日蔵」の解説

日蔵

没年:康保4頃(967)
生年延喜5頃(905)
平安中期の修験者。役行者とは別系統の,北野天神信仰とかかわる金峰山修験僧である。原名は道賢。天慶4(941)年金峰山笙窟で修法中に息絶え,西の覗岩(初登攀の行者が宙吊りされるので有名な行場)から出現した和尚姿の蔵王菩薩(修験道の本尊)に導かれて金峰山浄土に至った。蔵王菩薩は道賢に寿命を告げ,山で修行すれば延命が可能と教え,「日蔵」と改名させる。そこへ菅原道真が雷神鬼王などの異形の配下を伴って現れ,日蔵を居城に連れて行く。道真は,醍醐天皇に右大臣の地位を追われた怨みから日本の国土人民を破壊したいのだが,日本には彼の愛する密教が流布し,仏神も彼を慰撫するので思いとどまっていると語る。また実際に災害を起こすのは道真自身ではなく,異形の配下であるといい,彼らの上に立って超越神化すると同時に,道真の形像を作り名号をとなえて祈る者には災厄を免れさせることを告げた。日蔵は,地獄で醍醐天皇が苦を受けるさまを見たうえで生還した。この話の史料は通常『扶桑略記』天慶4年条の「道賢上人冥途記」によるが,これは抄本である。そして完本の真言系写本に大和国(奈良県)内山永久寺本がある(中野玄三『六道絵の研究』)。この話は,役行者系とは別の蔵王信仰の存在や,道真に浄土教の原型が認められるなどの点で貴重である。

(上田さち子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日蔵」の解説

日蔵 にちぞう

905?-985? 平安時代中期の僧。
延喜(えんぎ)5年?生まれ。三善清行の子(一説に弟)といわれる。大和金峰山(きんぷせん)椿山寺で修行し,東寺で密教をまなぶ。天慶(てんぎょう)4年(941)急死するが,金峰山の浄土と地獄をめぐり,太政威徳天神となった菅原道真(みちざね)と地獄でくるしむ醍醐(だいご)天皇をみて,生きかえったという。寛和(かんな)元年?死去。81歳?法名ははじめ道賢。通称は飛天大師。

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世界大百科事典(旧版)内の日蔵の言及

【三善氏】より

…ついで三善宿禰に朝臣の姓を賜ったのは903年(延喜3)ころで,当時,文章博士兼大学頭の清行などが活躍していた。清行の子は,文江と文明が文人官吏となり,浄蔵日蔵が出家しているが,それ以後直系の子孫に著名人は見えない。(2)漢族系 977年(貞元2)に近いころ,錦宿禰を改め三善朝臣の氏姓を賜った茂明や時佐は,〈漢の東海王の後,波能志より出づ〉と伝えている(《類聚符宣抄》)。…

※「日蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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