三善清行(読み)みよしきよゆき

精選版 日本国語大辞典 「三善清行」の意味・読み・例文・類語

みよし‐きよゆき【三善清行】

平安初期の漢学者文章博士。名は「きよつら」とも。字は三耀、号は居逸。文章博士から参議に進んだので、善相公といわれる。讖緯(しんい)説に基づき辛酉革命甲子革令を提唱し、これにより年号が延喜と改められた。経史に通じ詩文にも長じ、延喜一四年(九一四)に天皇に呈した「意見十二箇条」は識見高邁、時弊をよく指摘したと評価されている。著に「円珍和尚伝」「藤原保則伝」など。承和一四~延喜一八年(八四七‐九一八

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デジタル大辞泉 「三善清行」の意味・読み・例文・類語

みよし‐きよゆき【三善清行】

[847~919]平安前期の漢学者。文章博士もんじょうはかせ大学頭だいがくのかみ。経史・詩文に通じ、上奏文の「革命勘文」「意見封事十二箇条」は有名。また、「延喜式」の編集に参加。著「藤原保則伝」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三善清行」の意味・わかりやすい解説

三善清行
みよしきよゆき
(847―918)

平安前期の文人官僚。三善氏吉(うじよし)の子で、善相(ぜんしょう)公とも称される。また「きよつら」という訓もあるが、正しくは「きよゆき」。873年(貞観15)に文章生(もんじょうしょう)となり、翌年得業生となり、881年(元慶5)に方略試を受けるが不合格となる。このときの問者が菅原道真(すがわらのみちざね)で、以後清行が道真と立場を異にすることが多いのは、これに起因するとみる説もあるが明らかではない。2年後に37歳で対策に及第し、大学少允(しょうじょう)となる。886年(仁和2)少内記、翌年には従(じゅ)五位下(げ)大内記となる。この年に始まる阿衡(あこう)紛議では藤原佐世(すけよ)らの意見にくみし、橘広相(たちばなのひろみ)を弁ずる菅原道真に対する。893年(寛平5)に備中介(びっちゅうのすけ)となり、初めて地方社会の実情を知り、また政治の生きた理念を学ぶ。この経験はのち914年(延喜14)の意見封事十二箇条に強く反映される。

 900年(昌泰3)に刑部大輔(ぎょうぶたいふ)、文章博士となり、右大臣菅原道真に辞職を勧め、ついで明年辛酉(しんゆう)革命の議を上奏し、翌901年に道真左遷後、辛酉革命の勘文(かんもん)を上奏し、延喜(えんぎ)と改元された。ついで大学頭(だいがくのかみ)となり、延喜格式(きゃくしき)の編纂(へんさん)にも参画したが、晩年はとくに目だった活動はなく、917年に71歳で参議・宮内卿(くないきょう)となった。著作には『円珍和尚(えんちんかしょう)伝』『藤原保則(やすのり)伝』『善家秘記』などがあり、歌集として『善家集』(一巻・佚(いつ))があった。

[佐藤宗諄]

『所功著『三善清行』(1962・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「三善清行」の解説

三善清行

没年:延喜18.12.7(919.1.11)
生年:承和14(847)
平安前期の学者,官人。善相公と称す。淡路守氏吉の3男で母は佐伯氏の娘。若くして巨勢文雄に師事し文章生,次いで文章得業生となり,元慶5(881)年35歳で方略試(国の登用試験)を受けたが失敗(このときの問頭博士は菅原道真),2年後に合格して文人としての官途についた。大内記のとき直面した阿衡紛議(887)で藤原佐世らと「阿衡」は有名無実の職掌にすぎないと主張した(菅原道真は反対説の橘広相を弁護。その後,備中介(守は遥任)となって4年におよぶ地方生活を経験した。この体験が延喜14(914)年に醍醐天皇へ奉った「意見封事十二カ条」に反映している。昌泰3(900)年,文章博士となって間もなく右大臣菅原道真に辞職勧告の書を送り,結果的に左大臣藤原時平に味方したことになった(翌年,道真は大宰府に左遷)。次いで翌年が辛酉の年に当たるとして革命勘文を奉上して改元を主張し,「延喜」(901~923)の実現をみた。改元の直前に大学頭に任じられた。五条堀川に買った凶宅にひとりで住み,数々の妖変とわたりあったという『今昔物語集』の話は,陰陽道,算道に通じ,易筮に長じていた清行の力を表している。藤原時平らと『延喜格式』の編纂に従事し,『円珍和尚伝』『藤原保則伝』『善家秘記』などの著作がある。晩年眼を病み,『詰眼文』で,執筆ができなくなったことなどを吐露。71歳で参議となったが翌年に他界。<参考文献>所功『三善清行』

(朧谷寿)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三善清行」の意味・わかりやすい解説

三善清行
みよしきよゆき

[生]承和14(847)
[没]延喜18(918).12.7. 京都
平安時代中期の学者。「きよつら」とも読む。字,三耀。号,居逸。氏吉の3男。母は佐伯氏。巨勢文雄の弟子。貞観 16 (874) 年文章得業生となり,大学少允,少内記を経て仁和3 (887) 年従五位下,次いで大内記に転じ,同4年藤原佐世らと連署して阿衡の勘文を奉った (→阿衡事件 ) 。昌泰3 (900) 年刑部大輔,文章博士となり,『史記』を講述した。また辛酉革命の議を奉り,いれられて延喜と改元された。延喜1 (901) 年大学頭を兼ね,式部少輔,式部権大輔を経て同 14年式部大輔。この年醍醐天皇の詔に応じて律令制崩壊の現状を具体的に述べた意見封事 12ヵ条を奉った。同 16年善法寺を建立,翌年参議に任じられ,次いで宮内卿を兼ね,朔旦冬至 (さくたんとうじ) の賀表をつくり,また深紅の衣服の禁止を奏請した。応永 11 (1404) 年贈正二位大納言。詩,易に長じ,また明法に明るく,延喜5 (905) 年以来『延喜格式』の編集にあたった。『円珍和尚伝』 (902) ,『藤原保則伝』 (907) ,説話『善家秘記』などの著書がある。

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百科事典マイペディア 「三善清行」の意味・わかりやすい解説

三善清行【みよしきよゆき】

平安初期の漢学者。文章(もんじょう)博士,大学頭(だいがくのかみ)から参議兼宮内卿(くないきょう)に至り,善相公と呼ばれた。901年《革命勘文(かんもん)》を呈して讖緯(しんい)説に基づく改元の例を開き,905年以後《延喜格式》の編纂(へんさん)に参加。914年,12条の意見封事(ふうじ)(意見十二箇条)を醍醐天皇に提出,地方政治の弛緩(しかん)を論じた。著書《円珍和尚伝》《藤原保則伝》など。
→関連項目一条戻橋

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改訂新版 世界大百科事典 「三善清行」の意味・わかりやすい解説

三善清行 (みよしきよゆき)
生没年:847-918(承和14-延喜18)

平安前期の文人官吏。淡路守氏吉の三男。大学で巨勢文雄に師事し,37歳で対策及第して官途についた。893年(寛平5)備中介に赴任した以外は京で大内記,文章博士,大学頭,式部大輔など儒職を歴任し,晩年の71歳でようやく参議兼宮内卿に栄進した。詩文に優れ,《円珍和尚伝》《藤原保則伝》《善家秘記》などを著す。辛酉の年の901年(延喜1)に《革命勘文》を,また914年には《意見十二箇条》を上奏する警世家でもあった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三善清行」の解説

三善清行
みよしのきよゆき

847~918.12.7

「きよつら」とも。平安前期の学者・官人。幼名は文雄。字は三耀・居逸。善相公とも称した。氏吉の子。母は佐伯氏。873年(貞観15)文章生(もんじょうしょう)。翌年,巨勢文雄(こせのふみお)の推薦で文章得業生(とくごうしょう)に選ばれた。881年(元慶5)方略試で不第とされたが,2年後に改判で丁第とされ官途につく。887年(仁和3)従五位下。その後,大内記・備中介・文章博士(はかせ)・大学頭などを歴任。この間「革命勘文」を奏上し,辛酉革命説にもとづき改元を求めて容れられ,901年(昌泰4)7月,延喜と改元された。905年「延喜格式」編纂員に任じられた。914年従四位上・式部大輔となり,醍醐天皇の諮問に答えて政治改革を説いた「意見十二箇条」を上奏。917年参議となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三善清行」の解説

三善清行 みよし-きよゆき

847-919* 平安時代前期-中期の公卿(くぎょう),学者。
承和(じょうわ)14年生まれ。文章博士(もんじょうはかせ)兼大学頭(かみ),式部大輔などをへて,参議兼宮内卿,従四位上。善相公と称された。右大臣菅原道真への辞職勧告文,辛酉(しんゆう)の改元を上申した「革命勘文(かんもん)」,政策案「意見十二箇条」で知られる。「延喜(えんぎ)格式」の編集にもくわわった。延喜18年12月7日死去。72歳。字(あざな)は三耀。著作に「智証大師伝」「藤原保則伝」。
【格言など】老いたる人の心は違失すべからず(「藤原保則伝」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「三善清行」の解説

三善清行
みよしきよゆき

847〜918
平安前期の漢学者・公卿
名は「きよつら」とも読む。文章博士から参議・宮内卿に昇進した。914年醍醐 (だいご) 天皇の命により『意見封事十二箇条』を提出した。詩文に長じ,明法・算道にも明るく,『延喜格式』の編集に参加。ほかに『智証大師(円珍)伝』『藤原保則伝』などの著もある。

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世界大百科事典(旧版)内の三善清行の言及

【意見十二箇条】より

…914年(延喜14)4月,式部大輔の三善清行が密封提出した意見書。まず序論では律令国家財政の衰退ぶりを具体的に指摘し,以下12ヵ条の大半(1,3,8~12条)は,かつて備中国司(受領)として苦労した体験に基づき,地方行政上の現実的な障害除去を主張している。…

【陰陽道】より

…かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄(ゆげのこれお)ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。平安中期に出た三善清行も易に通じ,辛酉の歳には革命,甲子の歳には革令があるとの中国の讖緯説(しんいせつ)(周期的予言説)をひいて改元を上奏し,年号を延喜とした。これより周期的災厄説による災異改元が恒例化した。…

【本朝文粋】より

…巻二は詔,勅書,勅答,位記,勅符,官符,太政官符,意見封事など公文書の類,実用的文例を収める。三善清行意見十二箇条》は見識の高さを示す王朝最高の文章。当年の社会・経済の病弊を抉(えぐ)り,痛烈に批判して,国政の方向を提示する。…

【三善氏】より

…この氏には二つの流れがある。(1)百済系 《新撰姓氏録》に〈錦部連は三善宿禰と同祖,百済王速古大王の後なり〉とみえる。その渡来年代はわからないが,錦部連の一部が三善宿禰への改氏改姓を許されたのは805年(延暦24)前後で,当時,後宮女官に姉継,弟姉という人物がいた。ついで三善宿禰に朝臣の姓を賜ったのは903年(延喜3)ころで,当時,文章博士兼大学頭の清行などが活躍していた。清行の子は,文江と文明が文人官吏となり,浄蔵日蔵が出家しているが,それ以後直系の子孫に著名人は見えない。…

※「三善清行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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