日見村(読み)ひみむら

日本歴史地名大系 「日見村」の解説

日見村
ひみむら

[現在地名]長崎市宿町しゆくまちさかい一―二丁目・芒塚町すすきづかまち網場町あばまち

矢上やがみ村の南にある。東部は海に面し、日見川が注ぐ。南に金比羅こんぴら岳がある。長崎路が通り、日見宿が置かれ、日見峠を経て長崎市中に通じた。天正六年(一五七八)長崎純景が深堀純賢と当地で戦った際、峠から深堀氏側が焚く篝火を見たことから火見(のち日見)としたという。あるいは八朔に日見峠で行う日拝みにかかわるものであろう。一五八八年マタ神父がヒミやコガ、ナガヨ(現長与町)などの諸城の司牧を担当、ヒミの城でも多数の告解を聴いて洗礼を授けたという(フロイス「日本史」)。大村氏勢力下の長崎氏が深堀氏と戦を交えた高城たかしろ山に石塁が残る。当地の桜谷おうこく寺に天正年間に南蛮人が接木したという桜の大木があり、延宝年間(一六七三―八一)に枯れたとされる(長崎夜話草)。跡地は日見峠、宿の観音寺跡、網場の養国ようこく寺という諸説がある。天正一六年深堀純賢から没収した豊臣秀吉の直轄領長崎七ヵ村のうちとされる。江戸時代ははじめ幕府領で、慶長国絵図に「日見」とみえ、高二二〇石余。元和二年(一六一六)より島原藩領になったとされ、正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では日見村として高二四九石余、日見内としてまち村一一五石余・船津ふなつ村一三四石余が記される。


日見村
ひみむら

[現在地名]大島町大字日見

屋代やしろ島の西部に位置し、北西は志佐しさ、南東は横見よこみ、北東は屋代の各村と接する。西は海に面する。北東にある頂海ちようかい山の麓に広がる小村。

「三代実録」貞観九年(八六七)八月一六日条に「周防国正五位上出雲神石城神、比美神並授従四位下」とあり比美神の名が現れる。比美ひみをあてているが、この地名の初めであろう。嘉禄二年(一二二六)六月の周防屋代荘領家定文案(櫛辺文書)には「日見浦」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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