日野浦(読み)ひのうら

日本歴史地名大系 「日野浦」の解説

日野浦
ひのうら

[現在地名]田平町山内免 日ノ浦

平戸往還の宿駅であるとともに、平戸城下と結ばれる湊津の機能をあわせもつ。また伊万里いまり方面に通じる御厨みくりや筋街道が分岐する。一六三四年(寛永一一年)一〇月、オランダのヤハト船スハーヘン号が日の浦の付近まで来ると槍や刀をもった多数の船に止められ、乗員宣教師がいないかと疑われたという(平戸オランダ商館の日記)。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に「日ノ浦」とみえ、これより平戸島白浜しらはま(現平戸市)に渡海すると記される。寛文八年(一六六八)の西国筋海陸絵図(国会図書館蔵)に「ひのうら」がみえる。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では田平村浦分として日之浦とあり、元禄国絵図でも日之浦とする。平戸藩の長崎警備や参勤交代に伴う往来に用いられるため、番所・札場本陣馬子まご町・馬指役所などが置かれた。うち馬宿とも称された馬子町は明暦二年(一六五六)新地として五〇軒余が築かれ、壱岐小値賀おぢか(現小値賀町)から浦人・町人二〇軒余を移住させて成立、急な船用の水主に充てられた(松浦家世伝草稿・松浦家世年表)。ここで参勤交代の馬揃えが行われた。延宝九年(一六八一)の天祥公代法度(松浦史料博物館蔵)によれば、「田平町職人銀子裁判」のことは平戸の町年寄の管轄とされ、町場の様相を呈していた。


日野浦
ひのうら

[現在地名]鶴見町有明浦ありあけうら

桑野くわの浦の東に位置。元禄郷帳・天保郷帳では中浦なかうら村の内に含まれたと思われる。毛利高直御墨付不所持分覚(温故知新録)に日野浦とみえる。元禄見稲簿に中浦村の内に日野浦とみえ、無高。旧高旧領取調帳では高二八石余。元和二年(一六一六)当浦の横物成は鹿皮三枚(「横物成定帳」佐伯藩政史料)。寛永七年(一六三〇)ふき浦など三ヵ浦とともに納めていた鹿皮三枚が免除された(「毛利高成小物成宥状」温故知新録)。元和―寛永期当浦には百姓家五―六軒があり、おきにそれぞれ庄屋がいたという(「宇左衛門家系図」渡辺家文書)。寛永一一年当浦のキリシタン清太夫一家六人が処刑されている(鶴藩略史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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