時吉村(読み)ときよしむら

日本歴史地名大系 「時吉村」の解説

時吉村
ときよしむら

[現在地名]宮之城町時吉

宮之城郷屋地やち村の北東南西流する川内せんだい川南東岸にある。南東佐志さし田原たばる村、北西川内川を挟んで鶴田つるだ柏原かしわばる(現鶴田町)薩摩国建久図田帳にはけどう院一一二町のうちとして「時吉十五町 本名主在广道友」とみえる。在庁道友は薩摩国衙の在庁官人大前道友のことで、東郷別符郷司・入来院郡司、東郷とうごう別符・伊集いじゆう院などの各時吉名の名主でもあり、同図田帳末尾に「権 大前」とみえ判を据えている。大前氏は当初斧淵おのぶち(現東郷町)を拠点とし、しだいに川内川中流域まで勢力を拡大して一族が各地に土着した。寛元三年(一二四五)八月五日の寺家公文所下文(旧記雑録)に「時吉道助仮名名田内」とあることから、各地の時吉名は大前道助の仮名で、鎌倉初期には道友に引継がれていた。なお道助は大治六年(天承元年、一一三一)二月三〇日、新田宮社殿造営について申請していた庁宣の請文を差出しており、在国司掾大前宿禰道助と称している(「薩摩国在国司大前道助請文案」東京大学国史研究室蔵後日之式条附収文書)。元応二年(一三二〇)五月日の薩摩八幡新田宮雑掌重訴状案答院記)に「答院内時吉孫太郎入道」の名がみえ、これは前掲図田帳にみえる答院郡司熊同丸系の大前氏の子孫であろう。

宝治合戦ののち渋谷五家が薩摩に下向、しだいに大前氏を退け勢力を広げた。当地は答院氏の勢力に入った。嘉暦三年(一三二八)四月一日、「答院時吉内松尾寺院主職」と「鵄(平脱カ)田畠在家等」が松尾まつお寺院主琳春から彼岸次郎丸に譲与された(「薩摩答院松尾寺院主琳春譲状」答院記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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