日本歴史地名大系 「時津村」の解説 時津村とぎつむら 長崎県:西彼杵郡時津町時津村[現在地名]時津町久留里郷(くるりごう)・左底郷(さそこごう)・元村郷(もとむらごう)・野田郷(のだごう)・浦郷(うらごう)・浜田郷(はまだごう)・西時津郷(にしとぎつごう)現時津町域の北西部を除く地域を村域とし、北に開く入江に時津川が注ぐ。時津浦は彼杵(そのき)浦(現東彼杵町)と結ぶ海上交通の拠点で、また時津街道筋には時津宿が置かれた。内海に臨む浜田郷に湊津を開いたときの長崎領主の長崎甚左衛門のものという墓がある(県指定史跡)。野田郷に有馬氏の軍勢が籠ったという春(はる)城跡があり、前方に時津氏の開祖のものという室町期の墓石がある。ほかに日並郷の城(ひなみごうのしろ)の辻(つじ)、東端の浜(はま)の城(唾飲城)跡などが知られる。地名として西時津郷に長建寺(ちようけんじ)、元村郷に妙願寺(みようがんじ)、久留里郷に大円寺(だいえんじ)、野田郷に宝円寺(ほうえんじ)・古聖寺など寺院跡と考えられるものがあり、キリシタンによって破却された廃寺ともいう。元村郷丸田(まるた)にある富永某の墓は、元亀三年(一五七二)に肥前武雄(たけお)の後藤貴明、伊佐早(いさはや)の西郷純尭、平戸の松浦鎮信の軍勢が大村三城(さんじよう)(現大村市)に大村純忠を攻めたいわゆる三城七騎籠の戦の際に活躍した富永又助に関連するといわれ、墓石に「寛永九年」「富永□□門」と刻まれている。天正一〇年(一五八二)大村喜前が長崎純景にその領知であった長崎に替えて時津村内七〇〇石余を与えようとしたが、これを受けなかったため、養子の長崎内匠(松浦頼直)に西時津四八〇石余を与えている(「大村郷村記」など)。純景はのち筑後国柳川(やながわ)城(現福岡県柳川市)城主の田中吉政に仕えたあと再び大村家に奉仕、元和七年(一六二一)に時津で没したという(時津町郷土誌)。江戸時代は大村領の内海(うちめ)に属する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by