時津浦(読み)とぎつうら

日本歴史地名大系 「時津浦」の解説

時津浦
とぎつうら

[現在地名]時津町浦郷

大村湾の南部に置かれた湊津で、中世には彼杵そのき庄内の浦としてみえる。

〔中世〕

嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に「時津浦富次名」とみえ、嘉暦元年に検注が行われたが、同四年当時になってもなお目録が完成していなかったようである。庄内のほかの地域と同じく、当浦も一分領主によって分割知行を受けていたと考えられ、また同じく年貢未進を行っていたらしく、こうした在地の動向に対して惣検注およびそれをふまえた目録作成が推進されたのであろう。同文書目録に時津弥七郎入道・時津彦九郎・同七郎太郎・同九郎入道・同六郎入道らがみえ、時津を名字の地とする一団がいたことが知られるが、これより先、弘安六年(一二八三)一二月一日の関東裁許状写(福田文書)に引く嘉禎三年(一二三七)一二月二九日の関東御教書案には肥前国彼杵庄御家人として時津四郎がみえ、京都大番役などの所役を催促されている。時津氏は丹治氏の一族で、丹治重茂は弘安四年のモンゴル襲来に際して福田兼重とともにたか(現鷹島町)に赴き、敵船を焼払っているが(同五年三月九日「丹治重茂起請文写」同文書)、同七年「時津原次郎重用」らは異国警固のため兵船・帆柱・梶・櫓・網・碇・水手などを出している(同年三月一〇日「北条時定請取状写」同文書)。南北朝期には大村氏とともに肥後の菊池武敏に率いられ、延元元年(一三三六)に筑前博多多々良たたら浜で足利尊氏の軍勢と交戦し敗れている。この結果、時津四郎の所領である長瀬ながせ(比定地未詳)の田地四町は取上げられ、建武五年(一三三八)深堀氏一族の高浜政綱に勲功の賞として与えられている(同年二月九日「一色道猷充行状」深堀文書)

正平一八年(一三六三)彼杵庄南方内一揆に「時津六郎」丹治重清をはじめ時津ノ弥五郎丹治重通・丹治亀石丸が参加している(同年八月日「彼杵庄南方一揆連判状写」福田文書)。康応元年(一三八九)「時津一族等」は彼杵一揆や浦上一揆等中などとともに浦上中野美作守と福田大和守(兼親)の抗争の仲裁をしたが、今後は「公方御大事」の時分であるので「私弓箭」を停止、参陣し宿直に専任することを命じられているが(一〇月一三日「散位某(今川貞臣か)書下写」同文書)、この文書は検討の余地がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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