曲川村(読み)まがりかわむら

日本歴史地名大系 「曲川村」の解説

曲川村
まがりかわむら

[現在地名]西有田町大字曲川

大木おおぎ村の南、西部は八天はつてん(七〇七メートル)・オサエごえ(六〇〇メートル)稜線で現長崎県佐世保市に接し、東部では西流していた有田川が方向を北に変える。曲川の村名の由来という。有田川に注ぐ支流にはそれぞれ、内野うちのきたん川内こうち本村ほんむら楠木原くすのきばる扇状地がある。

慶長絵図に「曲川村 高八百五十九石一斗一升七合二勺」とあり、「楠原村・ひしりき村・岩屋村・外尾村・須加ノ村・古小庭・境野・長野・鳥屋・大野」にはいずれも「曲川ノ内」と記され、仏原ほとけのはる村・川野かわの村には「大木ノ内」とある。小字名として曲川丙では唐干田とうぼしだ深城ふかしろ中古場なかこば開田ひらきだ、曲川乙では中十里なかじゆうりなどがある。

北部の大木村と同じく西にし岳東部斜面の一〇〇メートルの等高線付近から下は緩傾斜になり、付近一帯の台地上に先土器時代より縄文・弥生時代の遺物が散布している。


曲川村
まがりかわむら

[現在地名]鮭川村曲川

羽根沢はねさわ村の北にある。集落は蛇行する曲川、および支流の中沢なかざわ川・西郡にしこおり川沿いの山麓に散在、新田本村鑑は枝郷として楢山・下村・小杉こすぎ・栗(粟)平・川崎かわさき・岡田・大平おおだいら・小坂・芦沢口あしざわぐち・芦沢・田野沢たのさわの一一ヵ村をあげる。最上地方の馬産は新庄藩主戸沢政盛が当村などに奥州産牝馬若干を下付したのに始まると伝える(山形県史)耕地は少なく昭和二〇年代まで製炭による収入に依存、また草分は大坂方の落武者であったとの伝承も残る(増訂最上郡史)。元和八年(一六二二)の御前帳写に村名がみえ、高八八石余、寛文四年(一六六四)には高二〇二石余、うち新田高一一三石余(新田本村鑑)


曲川村
まがりかわむら

[現在地名]橿原市曲川まわりかわ

曾我川曲流部西方に位置。東南は忌部いんべ村。まわりかわ・まりかわとも称する。安閑天皇勾金橋まがりのかなはし宮伝承地。「日本書紀」欽明天皇一四年七月四日条の樟勾くすのまがり宮も当地と考えられる。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「勾河」とあるほかさまざまの表記があるが、「多聞院日記」永禄九年(一五六六)九月一三日条に「十市之内衆曲川取離了」とある。「大和志」は「曲川まかりかわ旧名曲金」とするが、「五郡神社記」には「帝都遷宮記曰、安閑天皇勾金橋宮在大和国高市郡勾川辺金橋村、今云磐橋村(中略)勾川者蘇我川之末到此少北西勾、号云曲川也」と記す。


曲川村
まがりかわむら

[現在地名]本宮町曲川

平治川へいじがわ村の東南方、四村よむら川中流北岸に集落が位置。四村川南の檜葉ひば村から当村に至る間が最も曲流し、村の名もそれにちなむ。永和四年(一三七八)八月三日付の文書(「続風土記」所収曲河家文書)によると、曲河民部は湯峯ゆのみね村知行を熊野山衆中より安堵されている。文亀二年(一五〇二)四月二〇日付愛洲新三郎畠地売渡状(松本家文書)によれば、当村の「とうめきの平」の畠が新三郎より当村祖禰の五郎左衛門に売渡されている。


曲川村
まがりかわむら

[現在地名]肥前町大字万賀里川まがりかわ

唐津から入野いりの村への道筋にあたり、石切いしきり坂の急坂は古くから知られる。起伏の緩やかな丘陵地で原野が多く、凹地の水田の大部分が湿田で地力に乏しい。しかも水利に恵まれず干害を受けやすい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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