楠原村(読み)くすばるむら

日本歴史地名大系 「楠原村」の解説

楠原村
くすばるむら

[現在地名]日南市楠原

酒谷さかたに川を挟んで吉野方よしのかた村の南東に位置し、東は星倉ほしくら村、西は酒谷村。北東は同じく酒谷川を挟んで飫肥おび城下に接し、同城麓四ヵ村の一(六鄰荘日誌)志布志しぶし街道は本町ほんまち渡で城下から当村に入り、報恩ほうおん寺前を南に折れ諏訪馬場の東下、瀬戸せとくち(現在の字奥原の掘割付近)やまくち一期津留いちごづる(覆盆子鶴)を経て塚田つかだ村に至った。ほかに酒谷村を経て都城に通じる往還(都城往還)が通っていた。この往還は元禄一四年(一七〇一)の飫肥領国絵図控(日南市蔵)では本町渡から報恩寺前を北に折れて酒谷川を渡り、下酒谷の愛宕越あだんごえに至っていた。しかし天保年間(一八三〇―四四)の飫肥領国絵図写(日南市蔵)や「日向地誌」によるとその後瀬戸ノ口から走込を経て下酒谷の栗嶺くりみねに至る道が造成され、この経路が都城往還の主要道となっていた。

「殉国名藪抄」「島津国史」などによると、文明一六年(一四八四)一二月、薩摩の義岡島津豊久は伊東祐国・伊作久逸軍勢に取囲まれた飫肥城の新納忠続救援のため単身三〇〇の兵を率いて駆けつけたが、同月二二日にかまくらの陣で戦死している。このことについて「日向記」は豊久の戦死を同二三日のこととし、豊久を討捕らえたのは「楠原」に布陣していた伊東方の宮崎衆・佐土原衆であったと記す。


楠原村
くすわらむら

[現在地名]芸濃町楠原くすはら

なかノ川上流、鈴鹿郡界に位置し、伊勢別街道がほぼ東西に貫通する。「満済准后日記」永享三年(一四三一)三月一二日条に将軍足利義教の参宮に関して「自伊勢守護方又脚力到来、(楠)原阿野津以下毎事無為、申沙汰祝着」とみえる。また文正元年(一四六六)三月に将軍義政は日野富子同伴で参宮をしたが、「斎藤親基日記」にも「十八日昼 (楠)長野弥次郎 御宿安濃津守護、一色京兆」とある。ともに「栢原」は「楠原」の誤りであろう。「応仁記」には「(応仁二年七月)廿九日、世保与力楠原城落也」と明らかに楠原の字を用いている。


楠原村
くすばるむら

[現在地名]門司区庄司町しようじまち東門司ひがしもじ一―二丁目・清見きよみ一―四丁目・畑田町はたけだまち大久保おおくぼ一―三丁目・法師庵ほうしあん花月園かげつえん上本町かみほんまち谷町たにまち一―二丁目・長谷ながたに一―二丁目・丸山まるやま一―四丁目・丸山吉野町まるやまよしのまち丸山町清滝きよたき一―四丁目・元清滝もときよたき広石ひろいし一―二丁目・西海岸にしかいがん一―三丁目・葛葉くずは一―二丁目・風師かざし一―三丁目

門司村の南東に位置し、西は小森江こもりえ村と接する。中世は楠原郷などとある。


楠原村
くすはらむら

[現在地名]岐宿町楠原郷くすはらごう

河原かわら村の東に位置する。江戸時代は福江藩領岐宿掛に属する。万治二年(一六五九)の惣高積之帳に岐宿領として「楠原」とみえ、今高一六石余。安永元年(一七七二)の新田畑改では河原村河原村と並んで河原村楠原村として三石余と記されるので(天保五年福江領高辻郷村帳)、河原村のうちと考えられる。地内に福江藩営の馬牧が置かれていた。


楠原村
くすばるむら

[現在地名]北部町楠野くすの 楠原

坪井つぼい川の上流、台地と台地に挟まれた谷間にある。東は大鳥居おおとりい村、西は楠古閑くすこが村、南は西梶尾にしかじお村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田方一三町九反余・畠方二七町七反五畝余、分米三三一石二斗余とある。同一三年の検地帳では田がやや減少し、畠が若干増え、竈数一八・家数五二・人数五三、牛一二・馬四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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