曲淵村(読み)まがりぶちむら

日本歴史地名大系 「曲淵村」の解説

曲淵村
まがりぶちむら

[現在地名]早良区曲渕まがりぶち

石釜いしがま村の西、室見むろみ(早良川)の最上流域に位置する。西は怡土いと飯場いいば村、南は高山を隔て肥前国神埼かんざき三瀬みつせ(現佐賀県三瀬村)三瀬街道が北東から南西へ通る。飯場村野河内のごうち谷などから流れ出た二本の小河川が同村と当村との境辺りで一本(早良川)となり、東へ流下、産土神大山祇社(現山神社)前で流れを南東に転じて淵を作る。ここを曲淵と称し、村名も同所に由来する(続風土記拾遺)。長享三年(一四八九)正月二二日の東門寺文書紛失状案(修学院文書/佐賀県史料集成五)によれば、嘉保三年(一〇九六)に大蔵種房から背振せふり東門とうもん寺へ寄進された横山よこやま(脇山)六三町のうちに「曲淵」三町があり、東門寺上宮堂社・講行祭礼灯油料などに充てられていた。南北朝期、佐志寺田氏は前年来曲淵の支配が地下人狼藉などでうまくいかないことを訴えている(年未詳三月一九日「今川了俊書状」有浦文書/南北朝遺文(九州編)六)


曲淵村
まがりぶちむら

[現在地名]富山市水橋曲淵みずはしまがりぶち

白岩しらいわ川右岸沿いに位置し、北は西光寺さいこうじ村。村名は白岩川が氾濫して曲流した地に村立てされたことに由来するという(水橋町郷土史)。曲淵村(現滑川市)との混同を避けるため、江戸時代に上曲淵村と改称したが、大正四年(一九一五)に現在名に復した(上条小史)。応永一六年(一四〇九)八月二七日の守護畠山満家寄進状(永源師檀紀年録)によると、小井手こいで保内金剛こんごう寺に寄進された門前地の四至のうちに「南限曲淵川」とみえる。


曲淵村
まがりふちむら

[現在地名]猪苗代町川桁かわげた

新屋敷あらやしき村の西、長瀬ながせ川東岸の平地に位置し、二本松街道が通る。川東組に属した。蒲生氏郷の臣野矢源之丞が上杉景勝支配の時代に若松から当地に来て帰農したことが村の始まりと伝える。また年々長瀬川の洪水に悩まされたため元和五年(一六一九)集落を現在地に移転したという(猪苗代町史)。村名の由来も長瀬川の屈曲した所にあることによるとされる(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに曲淵とみえ、高二九七石余。


曲淵村
まがりぶちむら

[現在地名]滑川市曲淵

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部付近に位置し、西は荒俣あらまた村、北は北陸街道に臨む。南端を北陸街道が通る。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(赤間家文書)によると草高九六石、免四ツ、明暦二年(一六五六)から万治二年(一六五九)新田高四石。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は新右衛門、家数六はすべて百姓。明和五年(一七六八)の家数八(奥野家文書)


曲淵村
まがふちむら

[現在地名]東村曲淵

利根川左岸の湾曲部に成立した村で、北は手賀てが新田、東は四谷よつや村。江戸時代は津藩領で、元禄郷帳の村高は一八三石余であるが、天保郷帳では五三三石余に増加する。弘化二年(一八四五)の関東御取締役控帳(香取郡誌)によれば、大貫おおぬき(現千葉県香取郡神崎町)外一四ヵ村組合に属し、家数三四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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