最勝寺跡(読み)さいしようじあと

日本歴史地名大系 「最勝寺跡」の解説

最勝寺跡
さいしようじあと

京都市左京区岡崎最勝寺おかざきさいしようじ町東部地域にあった寺で、尊勝そんしよう寺と法勝ほつしよう寺の間に位置した。六勝りくしよう寺の一。「山槐記」応保元年(一一六一)七月七日条に「大炊御門東行 尊勝寺東大路南行 最勝寺北大路東行 法勝寺西大路南行 入御阿弥陀堂西南築垣下」とあり、北境が大炊御門おおいのみかど大路末より一町南の冷泉れいぜい小路末に面し、南境は「最勝寺者在尊勝寺東」とあることによって(「阿娑縛抄」諸寺略記)、二条大路末に面していたことがわかる。東西の寺域は不詳であるが方一町の規模であったと推定され、かつては最勝寺に由来するという西正の字名があった(坊目誌)

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建と修復〕

最勝寺は元永元年(一一一八)鳥羽天皇の御願寺として造営された。同年二月二一日に木作始めが営まれている。「中右記」には「此次有内新御願木作始、是尊勝寺東辺地也、塔一基先日造立供養了」とみえ、堂宇の建立に先立ってこの時すでに塔が造立されていた。

最勝寺跡
さいしようじあと

[現在地名]吉備町出

田殿丹生たどのにう神社の近く、神谷かみたにと称する小さな谷川を挟んだ山峡にあったが、現存しない。神谷寺ともいった。跡地は西側の山麓から山腹に及び、谷川を挟んだ東側山麓まで延びている。「続風土記」には「鳥羽院の御時真言の僧玄蔵聖人天野を学ひ寺院を社辺神谷といふ地に起し、七堂伽藍二十一坊を建て神谷山最勝寺と名つけ本坊を菊坊といふ、大門より奥院まて八町、其間町石を建て大に仏区を創む」とある。

最勝寺跡
さいしようじあと

[現在地名]福光町川西

戦国期に石黒いしぐろ郷にあった臨済宗寺院で、近世以降廃寺となった。創建年代・山号などは不明。「鹿苑日録」天文五年(一五三六)二月二九日条には京都相国しようこく大智だいち院末の越中国最勝寺に梵超喝食が入寺することとなったことがみえる。梵超は城端善徳じようはなぜんとく寺の円勝の次男とされる(「大谷一流系図」木倉豊信氏蔵)。同年三月一二日、室町幕府将軍祈願所である「越中国石黒郷内最勝寺」の寺領および諸末寺領を当知行に任せて承認する足利義晴の安堵状(最勝寺文書)が住持梵超喝食に与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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