最勝寺(読み)さいしょうじ

精選版 日本国語大辞典 「最勝寺」の意味・読み・例文・類語

さいしょう‐じ【最勝寺】

平安末期、京都白川(京都市左京区岡崎)に建てられた六勝寺の一つ。元永元年(一一一八)建立。鳥羽天皇の勅願寺だったが、応仁の乱以後廃絶した。

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デジタル大辞泉 「最勝寺」の意味・読み・例文・類語

さいしょう‐じ【最勝寺】

京都市左京区にあった寺。六勝寺の一。元永元年(1118)鳥羽天皇の勅願寺として創建されたが、応仁の乱以降廃絶した。

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日本歴史地名大系 「最勝寺」の解説

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]富山市蜷川

熊野くまの川と国道四一号の中間に位置する。瑞龍山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。建久八年(一一九七)に蜷川五郎親綱が亡父親直の菩提を弔うために蜷川にながわ城外の黒崎くろさきの地に臨済宗寺院として建立したという。蜷川氏は一二世紀初期に越中に下向して国衙在庁官人となり、のちに土着した太田氏の支族で、国衙領太田おおた保内の開発領主とされる。その後太田保内の蜷川村を本貫地として鎌倉御家人となったとみられ、その祖が親直であった。「寛永諸家系図伝」に「物部守屋の末裔太田左衛門尉式宗、弟蜷川七郎親直」とあり、「寛政重修諸家譜」では親直は建久八年八月二八日に死去したとされる。その後親行は足利尊氏に仕え、弟の親朝は丹波国船井ふない(現京都府)に移った。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]足利市大岩町

大岩おおいわ山の頂に近い南腹を開いて毘沙門天を祀り、その南方九〇〇メートルの地に本堂がある。大岩山と称し、真言宗豊山派。本尊は毘沙門天。「大岩山略縁起」によると、足利で民衆教化に励んでいた行基が夢で多聞天のお告げを聞き、大岩山に登って草庵を結び、丈六の多聞天像を刻み安置した。天平一七年(七四五)行基は京都に戻り大僧正に任じられ、大岩山は多聞院最勝寺とされ、翌年、堂塔・一二坊を整え寺領一千五〇〇石を与えられたという。源義家は願文を寄せ、前九年・後三年の役平定後、紺紙金泥の法華経と奥切矢一五手を納め、鎌倉時代には足利義兼の子義助が武運長久祈願のため一条院親筆の法華経全巻と願文を納め、足利尊氏も堂塔の修理や宝物の寄進を行ったが、文安四年(一四四七)落雷により堂宇焼失、什宝・記録類の大半を失ったと伝える。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]増穂町最勝寺

川右岸に位置する。最勝山と号し、真言宗。本尊は観音菩薩。慶応四年(一八六八)当寺が提出した由緒(寺記)によれば、聖武天皇の勅願により、奈良西大寺の忍正が開基となって七堂伽藍を建立したとある。また天平年間(七二九―七四九)に、行基が甲斐国の四岳八峰に囲まれた地形が仏法興隆の霊地にふさわしいとして観音像を彫って当寺に安置し、観音の冥助が諸仏のなかで最も勝っていることから寺号を最勝山最勝寺と名付けたともいう。西大寺は聖武天皇没後の天平神護元年(七六五)に称徳(孝謙)天皇の勅願によって建立された寺であり、由緒が開基とする忍正は鎌倉時代末期の真言律宗の僧忍性と思われることから、天平年間の創建で忍性が中興開山とも考えられる。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]河原町片山

霊石れいせき(三三三・五メートル)南西麓に位置する。霊石山と号し、真言宗御室派。本尊は行基作と伝える薬師如来。和銅年間(七〇八―七一五)行基が当地を訪れて草庵を開き、天暦年間(九四七―九五七)慈恵僧正(元三大師)が多数の仏閣と僧舎四二坊を造営し、霊石山最勝寺と号したという。この間、本尊は仁和元年(八八五)から天暦元年まで、長瀬ながせの長谷寺に移されていたと伝える(因幡志)

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]大野市明倫町

近世の大野おおの城下四番しばん町の南部にある。田野山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来友兼ともかね(現大野市)専福せんぷく寺の記録などによると、開基を専順とし、「三河念仏相承日記」にみえる三河和田門徒の「佐塚ノ専性」の法流であった。明応七年(一四九八)一〇月二四日下付の蓮如絵像(上据最勝寺蔵)の裏書に「越前国大野郡飛田庄田野最勝寺専誓」とあり、蓮如の頃、本願寺に帰したという。山号は文明年間(一四六九―八七)富田とみた田野たのに建立されたことに由来する。第五世の専賢の代に現在地に移転したという。「天文日記」天文五年(一五三六)二月二八日条に「越前最勝寺専宗」とみえる。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]阿久比町卯坂

大円山と号し、天台宗。本尊大日如来。寺伝によれば、白鳳三年行基の開創で、開山は光円、初め珍上山長泉ちようせん寺と称し修験道を兼ね吉野喜蔵よしのきぞう院末寺であったが、宝暦三年(一七五三)修験道を離れ、山号寺号を現名に改めた。境内の子安地蔵こやすじぞう堂は寛保四年(一七四四)古見こみ地蔵堂の本尊を移したもので、子供の「かんの虫封じ」に霊験があると信仰され柄杓の底に灸をすえて奉納祈願する。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]八幡町島谷

乙姫おとひめ川左岸にある。妙高山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、源頼政の末孫源宗忠が親鸞に帰依し、改名した専修を開基とする。延徳元年(一四八九)九世専宗の代に郡上郡市島いちしま村へ移住。慶長五年(一六〇〇)八幡城合戦に際し焼失。一二世の時に川佐かわさ村へ移り、寛永元年(一六二四)一三世専勝のとき現在地の字山本やまもとに転住したという。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]美山町大字佐々里

ハナノ谷段たにだん山の東麓にある。真宗大谷派。弘誓山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば大治三年(一一二八)良忍が知井谷ちいだにに建立した聞法もんほう寺の末寺で、もと真言宗であった。文明七年(一四七五)蓮如が当地に巡錫の時、帰依したみなみ村の村民が祐善と改名、当寺を再興し真宗に改めたという。蓮如筆の六字名号一幅を蔵する。その後七〇余年無住であったが、元亀年間(一五七〇―七三)祐西が住職となり再々興した。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]柏村桑野木田 福井

桑野木田くわのきだ福井ふくいにあり、浄円じようえん寺の約二〇〇メートル南。法竜山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、草創は自省で元禄四年(一六九一)の創立とある。

最勝寺
さいしようじ

[現在地名]旭川市永山二条一七丁目

真宗大谷派。超倫山と号する。本尊阿弥陀如来。明治四一年(一九〇八)より布教、同四二年一一月塚田智寿(大谷派布教師)が表四丁目に説教所を設けた。大正五年(一九一六)八月現在地に移転。

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旺文社日本史事典 三訂版 「最勝寺」の解説

最勝寺
さいしょうじ

平安末期,鳥羽天皇の発願により京都市東山区岡崎付近に建てられた六勝寺の一つ。

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世界大百科事典(旧版)内の最勝寺の言及

【六勝寺】より

…〈りくしょうじ〉ともいう。法勝(ほつしよう)寺,尊勝寺,最勝寺,円勝寺,成勝(じようしよう)寺,延勝寺の6寺。1075年(承保2)白河天皇の発願で法勝寺の造営が開始されて以後,1149年(久安5)延勝寺が落成するまで,白河親政・同院政・鳥羽院政期に,白河,堀河,鳥羽,崇徳(すとく),近衛の5天皇と鳥羽中宮待賢門院藤原璋子の6人の発願によって建立された。…

※「最勝寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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