有松村
ありまつむら
[現在地名]金沢市有松一―五丁目・
寺地一丁目・
富樫三丁目
久安村の東、伏見川の東岸に位置し、北は城下に続く。明徳元年(一三九〇)一二月一四日、小早川実忠に有松村地頭職が宛行われている(「足利義満下文案」室町家御内書案)。応永五年(一三九八)八月一五日の明峰和尚法弟連判書写(「永光寺中興雑記」永当寺文書)によると瑩山派曹洞教団明峰素哲門下の能州永禅寺(現珠洲市)月庵
瑛が二代住持(開山は明峰であろう)をつとめた「有松円真寺」が所在していた。同三五年一月一八日、前将軍足利義持が没したとき、「賀州有松」をもって「御追薦領」としている(相国考記)。ところで「建内記」正長元年(一四二八)五月二一日条に有松庄とみえ、万里小路時房の義兄豊房の所領であった同庄は前将軍義持によって奪われ、烏丸豊光に宛行われていた。
有松村
ありまつむら
[現在地名]稲沢市高重中町
東と北は奥田村に接する。東西に長く、東源寺川が村の東境を流れ、八神街道が村の北境を通り右回して村の中央を南下し、人家は村の西に集中している(天保村絵図)。天正末頃は織田信雄の家臣島田喜四郎の知行地であった(織田信雄分限帳)。
概高一四四石余で、藩士二人の給知。田地三町四反三畝余・畑地六町五反一畝余。隣村の奥田・日下部・北島の地へ出小作し、「小百姓ハカリニテ(中略)大キナルダイコンヲ作リ出セリ」という。
有松村
ありまつむら
北は鳴海宿に、東は落合村(現豊明市)に接している。慶長一三年(一六〇八)の桶はさま村新町諸役免許の証状(有松町史)によれば、近世の東海道が開かれた時、山間の僻地に道沿いに新しく作られた村である。同一八年八戸をもって出発し、「寛文覚書」によれば寛文一一年(一六七一)には三一戸になっている。寛永二年(一六二五)屋敷地八反一歩を無税地として移住を勧めたからであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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