寺地村
てらじむら
中須賀村のほぼ北に位置し、河内川流域にあたる。「芸藩通志」所載絵図によれば、飛地が五日市・保井田・中須賀・口和田・利松・石内・高井などの諸村に散在する。大永六年(一五二六)一二月一三日付の山県家高寺領寄進状(「辛未紀行」所収洞雲寺文書)にみえる「寺地民部丞方秀盛」は、地名を冠したものと考えられる。
寺地村
てらじむら
[現在地名]瀬戸町寺地
光明谷村の北東、細尾山南東麓にある。村名は細尾山中の大伽藍跡の寺田と関係すると伝える。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の物理保に村名がみえ、寛永備前国絵図では高五五二石余。「備陽記」によれば山寄り集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程四里、田畠三三町余、家数五九・人数三四七、池三。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高九七一石余、蔵入と家臣七名の給地。田高三七六石余・一九町八反余、畑高一七四石余・一三町七反余、物成合計三三三石余。開田畑高一三石余・一町一反余・物成六石余。
寺地村
てらじむら
[現在地名]金沢市寺地一―二丁目・
伏見台一―三丁目・
富樫二―三丁目・
寺地町・
長坂町など
伏見川の中流東岸・有松村の南に位置する。村名はかつて南接する円光寺村にあった寺の寺地であったことによるといい、当村牛頭天王社(現八坂社)は同寺の別当寺であったという説もある(加賀志徴)。元禄一〇年(一六九七)曹洞宗大乗寺が城下大乗寺坂下より当村東方、村持山の飛地寺地山(現長坂町など)に移転している。
寺地村
てらじむら
[現在地名]今立町寺地
樫尾村の東にあり、服部川を挟み南の寺地と北の日向寺地の二地区に分れる。高雄山山麓の日向寺地には刀那神社が鎮座(旧郷社)。同社は服部谷奥八ヵ村(春山・波垣・樫尾・寺地・横住・清根・相木・河内)の総社であった。一方、南の寺地には、服部谷の総坊南地院があったと伝えられるが、同寺は中世末兵火にかかり廃滅したという。寺地は古く中野村と称したが、「服間村是」は「数代の霊場空虚となり湮滅に帰せんことを惜み寺跡のみにても永久に伝えんと欲し中野の村名を廃して寺地と改称す」と記している。
寺地村
てらじむら
[現在地名]輪島市町野町寺地
時国村の南東、町野川右岸に位置。村名はかつて曹洞宗光現寺の寺領であったことにちなむという。天正一四年(一五八六)分の免付状(上時国家文書)によれば、「寺地村分時国手前」として七九俵余とあり、五五俵余が定納。うち五三俵余は時国分、一〇俵余は高田寺分、一六俵は「ふか谷□」分。ほかに「小七郎手前」として九一俵余があり、うち七俵余が荒、五八俵余が定納。正保郷帳では敷戸村と一括して高付される。承応三年(一六五四)の村御印の高二六七石余、免五ツ八歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二八〇石、免六ツ、小物成は山役八七匁・漆役二匁・川役五匁(三箇国高物成帳)。
寺地村
てらじむら
[現在地名]古川町寺地
南の畦畑村より流れる殿川中流にあり、北下流は笹ヶ洞村。当村の丘陵上に岩井戸観音堂があり、国中七観音の一つとして知られている。「斐太後風土記」によれば、この堂は向小島城主の菩提所境内に建てられたものと伝え、この地に菩提所があったための村名という。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では小鷹利郷に属し、高二〇〇石。
元禄検地反歩帳では高一一七石余、田九町四反余・畑四町一反余。「飛騨国中案内」では免四割一分六厘余、家数二二(うち百姓二〇・地借二)。
寺地村
てらじむら
[現在地名]青海町寺地
青海村から西へ約一〇町、北陸道に沿った街村で、おもに砂丘上に集落がある。縄文時代の大きな遺跡が前畑一帯にあるが、当時は背後の名引山や松山に続いた今よりも高くて広い丘陵あるいは台地であった。寺まんじょ、堂の入に往昔真言宗金剛寺があり、その門前集落であったところから名付けられたという。金剛寺は現在廃寺。正保国絵図に高一一六石余、天和三年郷帳では高一一四石一斗余、うち山高一石六斗余・塩高一〇石六斗二升とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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