朝妻庄(読み)あさづまのしよう

日本歴史地名大系 「朝妻庄」の解説

朝妻庄
あさづまのしよう

天野あまの川の下流から河口にかけての現米原町と近江町の東部一帯に比定される法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)領庄園。庄内には十二条じゆうにじよう郷・十三条じゆうさんじよう郷・十五条じゆうごじよう郷などがあった。「経俊卿記」康元二年(一二五七)三月七日条に「朝妻庄」とみえ、訴訟中は本知行人に付けるとの仮決定を無視して法性寺雅平が勝手に示を立てている。この訴訟は室町家信(雅平の父)の遺領をめぐるもので、建長八年(一二五六)に室町雅継が「開発(寺カ)田」について弟の雅平を訴えたものと考えられる。この開発田は現実には藤原氏女(権中納言局、雅継・雅平の姉妹)が知行しているので(同書同年八月三日条など)、同女の一期分であったと思われる。家信の譲状を預かる右府(西園寺実氏)に事情を尋ねたところ、双方に根拠のあることとの答であった(同書正嘉元年後三月六日条)。弘安六年(一二八三)一〇月二三日の近江町日撫ひなで神社鐘銘に「坂田南郡法勝寺御領朝妻庄」とみえる。庄内の十二条郷や十五条郷も室町家・法性寺家が庄務権を有するものと考えると、当庄は法勝寺を本家とし、同寺創建にあたって寺地を白河上皇に献上した藤原師実より同寺に寄進されたもので、庄務権は師実流の室町家信に伝領されたと考えられる。康安元年(一三六一)、幕府へ法勝寺住学生らの訴えが奈良興福寺を通じてなされており(五月三日「法印公憲書状」御挙状等執筆引付)、また康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」によれば、興福寺西南院領である当庄と坂田庄(現長浜市)から計三貫文が納められているので、当庄の権利の一部が西南院に移ったことが知られる。文明四年(一四七二)八月一一日の堀次郎左衛門城(鎌刃城か)合戦の賞として、当庄領家方が今井八郎五郎に下された(今井軍記)。なお文明年間以前には代官請になっていた(「多聞院日記」同一〇年一〇月一日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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