朝妻村
あさづまむら
[現在地名]米原町朝妻筑摩
天野川河口南岸に位置し、北は世継村(現近江町)、南は枝郷の中島村と筑摩村。西側は琵琶湖に面し、他の三方は平坦地が広がる。古代の坂田郡朝妻郷(和名抄)の遺称地で、琵琶湖有数の湊の所在地として知られた。また陸路では箕浦・能登瀬(現近江町)を経て東海道の醒井宿に通じ、交通の要衝であった。しかし天正年間(一五七三―九二)に長浜湊が開かれてから衰微し、慶長六年(一六〇一)には
船六艘があるにすぎなかった(芦浦観音寺文書)。
朝妻村
あさづまむら
[現在地名]御所市大字朝妻
金剛山東麓、西の伏見村、東の僧堂村間の緩傾斜地に立地。「日本書紀」仁徳天皇二二年正月の歌に「朝嬬の避介の小坂」とある朝嬬の地とされる。同書天武天皇九年九月九日条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す」とみえ、当村南方小字御所段をこの時の行宮跡と伝承する。寛政(一七八九―一八〇一)頃の地図には「御所壇井堰」の地名を記す。「姓氏録」山城国諸蕃の秦忌寸条にみえる弓月君らが移住した「朝津間」の地でもあり、外来文化の定着した先進地域であった。柿本人麻呂が、
<資料は省略されています>
と詠み、「大和志」には「葛木寺」「葛木ノ池」があったと記している。
朝妻村
あさづまむら
[現在地名]加西市朝妻町
山枝村の南に位置し、西は万願寺川を挟んで豊倉村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は西南村と同じ。正保郷帳では田方五九二石余・畑方四二石余。元禄郷帳では高七〇一石余。延享元年(一七四四)当村と常吉・繁昌・山枝の四ヵ村の庄屋が立会いのうえ村境が決定された(「四ヶ村立合秣場絵図」山枝町蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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