改訂新版 世界大百科事典 「朝鮮信託統治問題」の意味・わかりやすい解説
朝鮮信託統治問題 (ちょうせんしんたくとうちもんだい)
第2次世界大戦後の戦後処理をめぐって1945年12月28日モスクワ三国外相会議(アメリカ,イギリス,ソ連)の決定が発表され,その中で朝鮮に関しては5年の信託統治を行うことが明らかにされた。この信託統治案は日本の植民地支配の下で苦しみ,ようやく独立をかちとった朝鮮民族に強い衝撃を与えた。金九ら中国から帰国した大韓民国臨時政府(臨政)グループはただちに信託統治反対国民総動員運動委員会を結成,他の政党・団体も信託統治反対を声明し,連日〈反託〉デモを展開,31日の集会・デモは空前の規模に達した。だが翌46年1月2日朝鮮共産党は,突然,信託統治支持を表明,3日には独自に三国外相会議決定支持大会を開催。反託の大衆運動が高揚しているなかでの共産党の態度の急変は運動に混乱をもたらした。信託統治をめぐる分裂は左右の対立となって激化するが,米軍政庁はこの分裂を利用し,金九,李承晩,金奎植らに大韓民国代表民主議院を構成させ(2月14日),これを米軍政の最高諮問機関とした。呂運亨,許憲,朴憲永ら外相会議支持勢力は,民主主義民族戦線に結集した(2月15日結成)。朝鮮独立の方法を協議する第1次米ソ共同委員会が3月20日からソウルで開かれたが,委員会と協議する団体の条件で米ソが対立,46年5月21日に再開された第2次委員会も協議団体をめぐり対立したままに終わった。このためアメリカは朝鮮問題を国連へ付託,国連臨時朝鮮委員会のもとでの南朝鮮単独選挙(1948)という南北分断の永続化を強行した。
→大韓民国
執筆者:内海 愛子
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