呂運亨(読み)りょうんこう(英語表記)(R)Yǒ Un-hyǒng

改訂新版 世界大百科事典 「呂運亨」の意味・わかりやすい解説

呂運亨 (りょうんこう)
(R)Yǒ Un-hyǒng
生没年:1886-1947

朝鮮の独立運動家,政治家。号は夢陽。京畿道生れ。培材学堂,郵逓学校に学んだ後キリスト教に入信,教育事業を行った。1914年中国に渡り南京の金陵大学英文科に学び,18年上海で新韓青年党を組織金奎植パリ講和会議に派遣,三・一独立運動に際して19年4月大韓民国臨時政府樹立に参加。同年末日本に渡り陸軍大臣田中義一らに会い,記者会見でも朝鮮独立を主張して日本政界に物議をかもした。このとき吉野作造らにも会った。上海にもどり大韓人居留民団団長を務める一方,高麗共産党にも加わり,22年にはモスクワでの極東民族大会に出席,議長団の一人に選ばれた。その後上海を中心に韓国労兵会,中韓互助社の活動を行った。孫文とも交友があったという。29年日本官憲に逮捕され,懲役3年の判決を受け,出獄後の33年《朝鮮中央日報》社長に就任したが,36年の〈日章旗抹消事件〉で廃刊となった。44年秘密結社建国同盟を結成,解放の日に備えて活動した。45年8月の解放に際して総督府に権力委譲を要求,朝鮮建国準備委員会を結成して委員長に就任,9月には朝鮮人民共和国を樹立,副主席となる。朝鮮人民党委員長,民主主義民族戦線議長を経て,47年勤労人民党委員長となり南朝鮮労働党朝鮮労働党)とは異なる道を歩んだ。左右合作委員会の左派代表として合作に努力したが,47年7月李承晩派に暗殺された。気骨ある社会主義者であり,雄弁家としても名高く,解放後の南朝鮮では最も人気のある政治家だったといわれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「呂運亨」の意味・わかりやすい解説

呂運亨(りょうんこう)
りょうんこう / ヨウニョン
(1885―1947)

朝鮮の独立運動家。日本語読みは「りょうんきょう」とも。ソウルの培材学堂、中国南京(ナンキン)の金陵(きんりょう)大学などで学ぶ。1919年に上海(シャンハイ)で李光洙(りこうしゅ/イグァンス)らと新韓青年党を結成して本格的な独立運動を開始した。1919年末、大韓民国臨時政府代表として日本に招聘(しょうへい)された際に、朝鮮独立を訴える演説をして一躍有名になる。1920年には高麗(こうらい)共産党に入党し、モスクワで開かれた極東民族大会にも参加している。1929年、上海で日本警察に検挙されて3年間服役した後、民族紙『朝鮮中央日報』の社長に就任して自主的な言論活動を展開した。1944年、建国同盟を組織してひそかに朝鮮独立の準備を進め、1945年8月15日の朝鮮解放と同時に朝鮮建国準備委員会を設立して建国運動を主導した。同年9月、彼らが樹立した朝鮮人民共和国はアメリカ軍政当局に否定されたが、12月に朝鮮人民党、さらに翌1946年には勤労人民党の党首となり、左派系政治勢力を結集して独立国家建設を目ざす活動中に、1947年7月、ソウルの恵化洞(けいかどう)で暗殺された。

[馬渕貞利]

『武田幸男編『朝鮮史』(『新版世界各国史2』・2000・山川出版社)』『文京洙著『韓国現代史』(岩波新書)』


呂運亨(ろうんきょう)
ろうんきょう

呂運亨

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朝日日本歴史人物事典 「呂運亨」の解説

呂運亨

没年:1947.7.19(1947.7.19)
生年:高宗23.4.22(1886.5.25)
朝鮮の独立運動家,政治家。日本語読みは「りょ・うんこう」。日韓併合(1910)後中国に亡命し,上海で新韓青年党を組織しパリ講和会議に代表を派遣し,大正8(1919)年の3・1独立運動後は大韓民国臨時政府樹立に参加した。同年原敬内閣の招請で訪日し,朝鮮独立を主張して注目を浴びる。同11年にはモスクワでの極東民族大会に出席した。民国19(1930)年上海で逮捕され3年の服役後に帰国し,『朝鮮中央日報』社長などを経て解放に備えて活動した。1945年解放に際し朝鮮建国準備委員会を結成し,朝鮮人民共和国樹立に当たり副主席となる。米ソ対立後左右合作に努めるが,李承晩派に暗殺された。気骨ある政治家で人気が高かった。<参考文献>姜徳相「青春時代の呂運亨」(『季刊三千里』)

(森山茂徳)

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百科事典マイペディア 「呂運亨」の意味・わかりやすい解説

呂運亨【りょうんこう】

韓国の政治家。京畿道の人。1918年上海で新韓青年党を組織して以後,国際的な独立運動家として著名。1932年以降,朝鮮・日本で言論活動を行い,1944年建国同盟を地下組織として結成。1945年解放後,最大の国内派指導者として登場し,朝鮮建国準備委員会の委員長,朝鮮人民共和国の副主席に就任したが,帰国した大韓民国臨時政府派の李承晩金九らの政敵となり,1947年暗殺。
→関連項目金奎植

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呂運亨」の意味・わかりやすい解説

呂運亨
ろうんきょう
Ryǒ Un-hyǒng

[生]高宗23(1886).京畿道,楊西
[没]1947.7.19. ソウル
朝鮮の独立運動家,政治家。 1918年上海で新韓青年党を組織,19年大韓民国臨時政府の樹立に参加。同年 12月日本政府の招待で東京に旅行し,帝国ホテルで韓国独立を主張する演説を行なった。 22年極東民族大会 (モスクワ) に参加。 30年日本警察に逮捕された。 33~36年中央日報社長。 45年解放と同時に建国準備委員会を組織し,委員長に就任。同年 10月人民党を組織し党首となり,翌年勤労人民党を組織して党首に就任。金奎植とともに左右合作に奔走,47年7月暗殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「呂運亨」の解説

呂運亨 ヨ-ウンヒョン

1886-1947 朝鮮の独立運動家,政治家。
高宗23年4月22日生まれ。日本による韓国併合後,中国に亡命。1919年三・一独立運動後,上海での大韓民国臨時政府樹立にくわわる。同年来日して朝鮮独立の正当性をうったえた。1929年上海で逮捕され,釈放後朝鮮中央日報社長。日本敗戦の1945年朝鮮人民共和国の樹立を宣言。副主席となり,左右合作運動中,1947年7月19日李承晩(イ-スンマン)派に暗殺された。62歳。

呂運亨 りょ-うんこう

ヨ-ウンヒョン

呂運亨 ろ-うんきょう

ヨ-ウンヒョン

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世界大百科事典(旧版)内の呂運亨の言及

【朝鮮建国準備委員会】より

…1945年8月15日,日本による植民地支配からの解放を迎えた朝鮮で新国家樹立のために結成された政治組織。ポツダム宣言受諾発表を前に朝鮮総督府は呂運亨(りようんこう)に治安維持への協力を要請,呂は政治犯・経済犯の釈放,自主的治安組織への不干渉などを条件に受け入れ,非合法に作っていた建国同盟を中心として建国準備委員会(建準)を組織した。呂を委員長,安在鴻を副委員長(のち許憲)とする建準は,民族主義者から共産主義者まで含む統一戦線として民衆の支持を得た。…

※「呂運亨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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