韓国(大韓民国)の政治家。第1~3代大統領。号は雲南。黄海道平山郡で李王家に連なる名家に生まれる。書堂で漢学を学んだのち、1894年培材学堂で近代教育を受け英語教師となる。1896年以後、独立協会の運動に参加し、1898年投獄される。1904年釈放されて渡米。ワシントン大学、ハーバード大学に学び、プリンストン大学から博士号を受けた。1910年帰国しキリスト教青年運動に従事したが弾圧され再渡米。以後、ワシントン、ハワイを拠点に独立運動を行う。1919年上海(シャンハイ)に設立された大韓民国臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領に就任。ワシントンに臨時政府欧米委員部を開設した。まもなく独断行為や財政不明朗により大統領を罷免されたが、戦時中、欧米委員部委員長として対欧米外交にあたった。解放後、1945年10月に帰国するや反共右派の巨頭として信託統治案に反対、独立促成運動を展開。1946年民主議院議長となり、アメリカ占領軍の意向にも反しながら、有力政敵を次々にけ落とし抹殺して、権力掌握を目ざした。米ソ冷戦の機運に乗じて、1948年制憲国会議長となり、国連の南朝鮮単独選挙実施により初代大統領に就任。以後「北伐統一」を呼号して朝鮮戦争の火種をまき、1952年には「李承晩ライン」を宣言して日本漁業を締め出し、1953年の休戦交渉に反対して反共捕虜を釈放するなど、独善的な反共・反日路線を展開。また、大統領ポストを永続的に確保しようと、再三にわたり憲法改正を強行し、1960年選挙では極端な不正選挙を実施して4選をかちとった。しかし、この不正に憤激した学生の決起(四月学生革命)により、未就任のまま下野し、ハワイに亡命、1965年90歳で死去した。
[玉城 素]
大韓民国の初代大統領。黄海道の名門の出身。若くして独立協会の運動に参加し1898年投獄された。1904年出獄後渡米。ワシントン大学,ハーバード大学に学び,プリンストン大学で哲学博士号を取得。朝鮮独立への国際世論,特にアメリカ政府の支援を求めて外交宣伝活動を展開した。19年上海の大韓民国臨時政府の大統領に推戴されたが,一時期上海にわたっただけで(1920年12月~21年5月),以後ほとんどアメリカですごし,その独善的ふるまいから25年弾劾免職された。祖国解放後の45年10月帰国,右翼保守勢力の支持を得て独立促成中央協議会を組織し,信託統治反対運動を展開。親米反共主義者として早くから南朝鮮単独政府樹立を主唱し,48年大韓民国成立とともにアメリカの支援の下に初代大統領に就任した。李政権は地主,旧植民地官僚,少数独占資本家をその主たる勢力基盤とし,朝鮮戦争後いっそう強化されたアメリカからの軍事的経済的援助によって支えられた。李は南北朝鮮の分断の下で反共イデオロギーによる国民意識の統合をはかり,また国民の反日意識を背景に52年の〈李承晩ライン〉の宣言等,対日強硬姿勢を示した。その封建君主的性格と激しい権勢欲から52年〈大統領直選制改憲〉,54年〈大統領3選改憲〉を強行して永久独裁体制の確立をはかり,反対勢力を徹底的に弾圧した。しかし50年代末アメリカの対韓援助が削減される中で国民の抵抗運動が高まり,60年大統領に4選されたが,四月革命で退陣に追いこまれ,亡命先のハワイで病死した。
執筆者:大塚 嘉郎
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1875~1965
韓国の政治家,大統領(在任1948~60)。黄海道の人。ソウルで漢学を修め,朝鮮王朝末期の独立運動に参加。1898~1904年獄につながれたが,出所後渡米,ハーバード,プリンストンなどの大学に学ぶ。のち朝鮮,アメリカ,中国を遍歴して独立運動を進め,19年上海に韓国臨時政府をつくり,やがて初代大統領となる。45年10月ソウルに帰り,朝鮮半島南部の独立を準備,48年8月,大韓民国が生まれると,初代大統領となる。60年4月,学生革命により失脚,ハワイに亡命した。
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1875.3.26~1965.7.19
韓国の政治家。黄海道出身。独立協会幹部として反日・独立運動に従事。1905年渡米。ワシントン大学を卒業後,プリンストン大学で博士号を獲得。19年上海で大韓民国臨時政府を組織し,国務総理ついで大統領となるが,その後はアメリカで独立運動を継続。日本敗戦後の45年10月帰国し,48年大韓民国の成立とともに初代大統領。4選するが60年4月の学生革命により辞任。亡命先のハワイで死去。
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「イ・スンマン(李承晩)」のページをご覧ください。
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…1960年4月に韓国で起きた学生を中心とした李承晩政権打倒の大衆蜂起。同年3月15日の大統領選挙の不正に抗議した馬山市民の蜂起後,行方不明になっていた中学生金朱烈の惨殺死体が発見されるや,抗議の声は全国に広がり,4月19日ソウルの大学のほとんどがデモに決起し,市民をもまきこみ騒乱状態になった。…
…
【略史】
1945年8月15日に日本が無条件降伏すると,かねて独立運動をになってきた呂運亨,安在鴻ら民族主義者はただちに朝鮮建国準備委員会を結成し,朴憲永らによって再建された朝鮮共産党も加えて自主的な行政機構の創出を進め,地方ごとに人民委員会を組織していった。アメリカ軍の進駐を目前にした9月6日には,李承晩から金日成にいたるまで内外で日本帝国主義の支配に抗して闘ってきた人士を左右を問わず幅広く指導部に網羅した朝鮮人民共和国が発足した。しかし38度線以南に進駐したアメリカ軍は,呂運亨ら左派民族主義者や共産主義者が主導権をもつ人民共和国を全面否定して強力な軍政をしき,45年12月にモスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,米ソ合同委員会の管理下で臨時政権樹立を具体化し,同政権を米英ソ中4ヵ国の5年間の信託統治下に置くことなどが合意され,即時独立を求める民衆の志向は無視された。…
…三・一独立運動勃発後,独立運動の継続と拡大のため,また対外的にも民族の統一的な指導機構の必要性が痛感され,内外各地で政府樹立計画がすすめられた。当時上海には申圭植,申采浩,呂運亨,李光洙ら多くの独立運動家が集結していたが,彼らは臨時議政院を組織し,李承晩を首班とする閣僚を選出,臨時憲章を制定し,大韓民国臨時政府(臨政)の樹立を宣言した。同じころソウルとシベリアでも臨時政府樹立が宣言されたが,それはやがて上海を基盤に統合されていく。…
…太平洋戦争の敗戦後,占領軍の指令に基づいて日本漁業の操業区域は1945年9月27日以降マッカーサー・ライン内に限定された。これがサンフランシスコ講和条約で52年4月25日限り撤廃されることとなったのに先立ち,韓国周辺水域における日本漁業の脅威を見越した李承晩韓国大統領は,同年1月18日〈韓国領土近海の大陸棚の上部,表面,地下にあるすべての鉱物と水産資源について,韓国はその主権を留保し,行使する〉という海洋主権宣言を発し,いわゆる李ライン(李承晩ライン)を設定した。これはその後の200カイリ漁業専管水域にも相当する広大な水域から他国漁船を排除するもので,(当時としては)国際法に反する一方的措置であるとして,日本漁業者の強い反対がみられた。…
…しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。…
※「李承晩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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