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李承晩 りしょうばん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

李承晩
りしょうばん

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デジタル大辞泉の解説

イ‐スンマン【李承晩】

[1875~1965]韓国の政治家。韓国併合後、米国で朝鮮独立運動に従事。1948年、大韓民国の成立とともに初代大統領に就任。第3代まで務める。反共親米政策を推進、1960年の選挙で4選したが、反独裁の四月革命により未就任のままハワイに亡命、客死。りしょうばん。→ユンボソン

り‐しょうばん【李承晩】

イスンマン

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百科事典マイペディアの解説

李承晩【りしょうばん】

韓国の政治家。黄海道出身。青年時代から朝鮮独立運動に参加し,1904年渡米後,国際的な独立運動家として頭角を現し,三・一独立運動後1919年上海で結成された大韓民国臨時政府国務総理,次いで大統領に推されたが,派閥抗争で失脚。
→関連項目金九金台俊大韓民国東亜日報朴烈事件四・三事件呂運亨

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

李承晩 り-しょうばん

イ-スンマン

李承晩 イ-スンマン

1875-1965 韓国の独立運動家,政治家。
高宗12年3月26日生まれ。1904年アメリカにわたりハーバード大などにまなぶ。1919年上海に樹立された大韓民国臨時政府の大統領となる。再渡米し,1945年帰国,1948年大韓民国初代大統領となる。李承晩ラインを設定して,日本と対立。反共,独裁的政治をすすめた。1960年四・一九革命で辞任,ハワイへ亡命した。1965年7月19日死去。91歳。黄海道出身。

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世界大百科事典 第2版の解説

りしょうばん【李承晩 (R)I Sǔng‐man】

1875‐1965
大韓民国の初代大統領。黄海道の名門の出身。若くして独立協会の運動に参加し1898年投獄された。1904年出獄後渡米。ワシントン大学ハーバード大学に学び,プリンストン大学で哲学博士号を取得。朝鮮独立への国際世論,特にアメリカ政府の支援を求めて外交宣伝活動を展開した。19年上海の大韓民国臨時政府の大統領に推戴されたが,一時期上海にわたっただけで(1920年12月~21年5月),以後ほとんどアメリカですごし,その独善的ふるまいから25年弾劾免職された。

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大辞林 第三版の解説

イスンマン【李承晩】

1875~1965) 韓国の政治家。日本の韓国併合後、アメリカなどで独立運動を行い、1948年に大韓民国の初代大統領となる。60年その独裁的政治手法に対する国民の抵抗運動により辞任、アメリカに亡命。りしょうばん。

りしょうばん【李承晩】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

李承晩
りしょうばん / イスンマン
(1875―1965)

韓国(大韓民国)の政治家。第1~3代大統領。号は雲南。黄海道平山郡で李王家に連なる名家に生まれる。書堂で漢学を学んだのち、1894年培材学堂で近代教育を受け英語教師となる。1896年以後、独立協会の運動に参加し、1898年投獄される。1904年釈放されて渡米。ワシントン大学、ハーバード大学に学び、プリンストン大学から博士号を受けた。1910年帰国しキリスト教青年運動に従事したが弾圧され再渡米。以後、ワシントン、ハワイを拠点に独立運動を行う。1919年上海(シャンハイ)に設立された大韓民国臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領に就任。ワシントンに臨時政府欧米委員部を開設した。まもなく独断行為や財政不明朗により大統領を罷免されたが、戦時中、欧米委員部委員長として対欧米外交にあたった。解放後、1945年10月に帰国するや反共右派の巨頭として信託統治案に反対、独立促成運動を展開。1946年民主議院議長となり、アメリカ占領軍の意向にも反しながら、有力政敵を次々にけ落とし抹殺して、権力掌握を目ざした。米ソ冷戦の機運に乗じて、1948年制憲国会議長となり、国連の南朝鮮単独選挙実施により初代大統領に就任。以後「北伐統一」を呼号して朝鮮戦争の火種をまき、1952年には「李承晩ライン」を宣言して日本漁業を締め出し、1953年の休戦交渉に反対して反共捕虜を釈放するなど、独善的な反共・反日路線を展開。また、大統領ポストを永続的に確保しようと、再三にわたり憲法改正を強行し、1960年選挙では極端な不正選挙を実施して4選をかちとった。しかし、この不正に憤激した学生の決起(四月学生革命)により、未就任のまま下野し、ハワイに亡命、1965年90歳で死去した。[玉城 素]

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世界大百科事典内の李承晩の言及

【四月革命】より

…1960年4月に韓国で起きた学生を中心とした李承晩政権打倒の大衆蜂起。同年3月15日の大統領選挙の不正に抗議した馬山市民の蜂起後,行方不明になっていた中学生金朱烈の惨殺死体が発見されるや,抗議の声は全国に広がり,4月19日ソウルの大学のほとんどがデモに決起し,市民をもまきこみ騒乱状態になった。…

【大韓民国】より


【略史】
 1945年8月15日に日本が無条件降伏すると,かねて独立運動をになってきた呂運亨,安在鴻ら民族主義者はただちに朝鮮建国準備委員会を結成し,朴憲永らによって再建された朝鮮共産党も加えて自主的な行政機構の創出を進め,地方ごとに人民委員会を組織していった。アメリカ軍の進駐を目前にした9月6日には,李承晩から金日成にいたるまで内外で日本帝国主義の支配に抗して闘ってきた人士を左右を問わず幅広く指導部に網羅した朝鮮人民共和国が発足した。しかし38度線以南に進駐したアメリカ軍は,呂運亨ら左派民族主義者や共産主義者が主導権をもつ人民共和国を全面否定して強力な軍政をしき,45年12月にモスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,米ソ合同委員会の管理下で臨時政権樹立を具体化し,同政権を米英ソ中4ヵ国の5年間の信託統治下に置くことなどが合意され,即時独立を求める民衆の志向は無視された。…

【大韓民国臨時政府】より

三・一独立運動勃発後,独立運動の継続と拡大のため,また対外的にも民族の統一的な指導機構の必要性が痛感され,内外各地で政府樹立計画がすすめられた。当時上海には申圭植,申采浩,呂運亨,李光洙ら多くの独立運動家が集結していたが,彼らは臨時議政院を組織し,李承晩を首班とする閣僚を選出,臨時憲章を制定し,大韓民国臨時政府(臨政)の樹立を宣言した。同じころソウルとシベリアでも臨時政府樹立が宣言されたが,それはやがて上海を基盤に統合されていく。…

【日韓漁業協定】より

…太平洋戦争の敗戦後,占領軍の指令に基づいて日本漁業の操業区域は1945年9月27日以降マッカーサー・ライン内に限定された。これがサンフランシスコ講和条約で52年4月25日限り撤廃されることとなったのに先立ち,韓国周辺水域における日本漁業の脅威を見越した李承晩韓国大統領は,同年1月18日〈韓国領土近海の大陸棚の上部,表面,地下にあるすべての鉱物と水産資源について,韓国はその主権を留保し,行使する〉という海洋主権宣言を発し,いわゆる李ライン(李承晩ライン)を設定した。これはその後の200カイリ漁業専管水域にも相当する広大な水域から他国漁船を排除するもので,(当時としては)国際法に反する一方的措置であるとして,日本漁業者の強い反対がみられた。…

【矢次一夫】より

…しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。…

※「李承晩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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