日本歴史地名大系 「木古内村」の解説
木古内村
きこないむら
近世から明治三五年(一九〇二)まで存続した村。現町域の南端に位置し、北は
シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」に「ちこない」とみえ、「是迄三里 川有 狄おとなオヤツフリ」と記される。家四、五軒があった。「狄蜂起集書」は「ちこ内」とする。元禄郷帳の「従松前東在郷并蝦夷地之覚」に「きこない村」、享保十二年所附には「喜古内村」、天保郷帳の「従松前東在」に「木子内村」と記される。享保二年(一七一七)には「喜古内山」は鷹打場所(松前蝦夷記)。「松前随商録」によれば「キコナイ」は松前貢支配、産物は昆布・鰊・雑木・鮭、「秋味不残知行ヘ納ル」と記される。天明年間(一七八一―八九)は五〇戸弱・二〇〇人弱(蝦夷拾遺)。寛政三年(一七九一)には松前貢の給地で家数三〇、名主は佐次兵衛(東蝦夷地道中記)。
前掲地名考に「家木・船皆具・薪等伐り取、其外年中鰯漁を重ニいたし」とあり、出稼と鰯漁を生業にしていたが、「春中は西蝦夷地江鯡出稼、夏中より初秋まては為出稼ヲサツベ辺江罷越す」と記されるように出稼が多かった。文化元年(一八〇四)四月羽大正養が箱館奉行として赴任。禁約を提示した正徳の条制を「申明」し(休明光記)、翌年高札を箱館から木古内に至る九ヵ所と、
木古内村
きこないむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報