木牟礼城跡(読み)きのむれじようあと

日本歴史地名大系 「木牟礼城跡」の解説

木牟礼城跡
きのむれじようあと

[現在地名]高尾野町江内など

江内えうちの南東部、野田のだ下名しもみようとの境、野田川左岸に位置する。出水平野の西側に臨む標高一五メートルくらいを最高地点とするシラス台地東端に築かれた山城。南東五〇〇メートルほど隔てた下名地内の微高地屋地やじとよばれた館があった。鎌倉時代には山門やまと院に属し、当時は屋地とよんでいたが、のちにはこの屋地部分を含めて木牟礼城といった(三国名勝図会)。文治二年(一一八六)島津忠久家臣本田貞親を薩摩に派遣し当城を築かせ、八月二日貞親ら四人の家臣と数十人の従者を率いて城に入り守護所としたという(島津氏正統系図・島津国史)。守護所に家臣を守護代として派遣するのは当時広くみられたことで、鎌倉時代の木牟礼城とは屋地すなわち館のことをさし、同所が薩摩の守護所で、守護代がいたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android