木田郷(読み)きだごう

日本歴史地名大系 「木田郷」の解説

木田郷
きだごう

有武東ありたけひがし郷アリタケヒガシゴウとも称された。美濃国衙領の一。文和四年(一三五五)「木田郷号有武東郷」の地頭権女医博士和気為成は、河村十郎左衛門の乱妨停止を訴え認められたが、乱妨は止まず、翌延文元年(一三五六)六月一八日再び乱妨停止が守護土岐頼康に命ぜられている(「足利尊氏御教書」前田家所蔵文書)。康暦元年(一三七九)には地頭職は山城安禅あんぜん寺に移っており、同年六月二七日、幕府は同寺雑掌の訴えを認め、当郷の地頭職押領人の排除を頼康に命じている(「足利義満御教書」五十川正助氏所蔵文書)。その後、当郷などの美濃国衙領の半分以上の年貢は守護が徴収したらしいが、土岐氏の乱により国の催促を止め、明徳元年(一三九〇)八月四日、新たに安禅寺領である当郷の代官に任命された浄順は、年貢二二貫文の納入を約束している(「浄順請文」宝鏡寺文書)


木田郷
きだごう

熱田社領。現東海市木田辺りか。鎌倉後期と推定される熱田社領新別納郷等注文案(猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書)断簡に「新別納郷々并当役勤仕要郷内、被割名所々等二千六百四十四丁六反百四十歩」のうちとして「木田郷二十丁九反三百歩」とある。正安二年(一三〇〇)の熱田社領大郷早田検見注進状案(同文書)除田として「木田押領半」とみえる「木田」は、当郷郷司をさすか。


木田郷
きたごう

和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「支太」、東急本に「木多」、名博本に「キタ」と訓じる。武蔵国国分寺瓦に「木田」とヘラ書されたものがある。当郷の有力者が国分寺(現国分寺市)献納する瓦を焼かせていたのであろう。「風土記稿」は現世田谷区域の上北沢かみきたざわ・下北沢の北が遺称地名にかかわるとする説を紹介し、おぼつかなしとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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