本因坊秀栄(読み)ほんいんぼうしゅうえい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本因坊秀栄」の意味・わかりやすい解説

本因坊秀栄
ほんいんぼうしゅうえい

[生]嘉永5(1852).江戸
[没]1907.2.10.
囲碁名人。 14世本因坊秀和の次子。文久2 (1862) 年,12世林門入 (柏栄) の養子となる。慶応1 (65) 年家督相続,林家 13世となるに際し幼名平次郎を秀栄と改めた。 1879年,方円社創立に参加したが,半年後退社,村瀬秀甫らに破門措置をとった。 83年林家を去って土屋姓に復し,16世本因坊秀元を隠居させて 17世本因坊となる。翌年政財界要人の勧告を受入れて秀甫と和解,方円社におもむいて対局を重ねた。 86年秀甫に本因坊 (18世) を譲り,土屋姓に戻ったが,秀甫急逝により,87年 17世本因坊を再称,のちに 19世と改称した。 95年四象会を興した頃から至芸の境地に達し,方円社の若手までがことごとく参集した。 1906年,推されて名人に就位。彼の遺譜を集めた『秀栄全集』 (1911) は,本邦最初の個人打碁全集である。弟子に本因坊秀哉らがある。

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朝日日本歴史人物事典 「本因坊秀栄」の解説

本因坊秀栄

没年:明治40.2.10(1907)
生年:嘉永5.9.20(1852.11.1)
明治期の囲碁棋士。13代林秀栄。17世,および19世本因坊,名人。14世本因坊秀和の次男。江戸・本郷湯島生まれ。幼名平次郎。文久2(1862)年12代林門入(柏栄)の養子となる。元治1(1864)年門入死去のため,秀栄と改名,慶応3(1867)年13代林秀栄に。慶応4年,明治維新の年に四段昇段。明治6(1873)年秀和が死去。時代の波に洗われて,本因坊家継承など囲碁界にも様々な曲折があった。17年,林家を離籍して本因坊家に戻り,弟秀元を継いで17世本因坊。19年確執のあった秀甫と和解,18世本因坊を譲り,七段を受けた。秀甫の急死後再び本因坊を継いで19世。大器晩成型の棋士で,棋理に明るく軽妙。七段以後は同時代の棋士から抜きん出ていた。38年,日本囲棋会を創設。39年,名人。<参考文献>高川格『秀栄』(日本囲碁大系)

(谷口牧夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本因坊秀栄」の解説

本因坊秀栄 ほんいんぼう-しゅうえい

1852-1907 明治時代の囲碁棋士。
嘉永(かえい)5年生まれ。14世本因坊秀和の次男。12世林門入の養子となり,13世林秀栄を名のる。明治17年復籍して17世本因坊をつぐ。19年対立していた方円社との和解が成立,村瀬秀甫(しゅうほ)に18世本因坊をゆずり,秀甫の没後,ふたたび本因坊(19世)となった。39年名人。明治40年2月10日死去。56歳。江戸出身。姓は土屋。通称は平次郎。

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世界大百科事典(旧版)内の本因坊秀栄の言及

【本因坊】より

…江戸時代,幕府の扶持(ふち)を受けた囲碁家元4家の筆頭。京都寂光(じやつこう)寺の塔頭(たつちゆう)〈本因坊〉の僧算砂(本因坊算砂)を祖とする。4世道策(本因坊道策)は布石理論をひっさげて近代碁の基礎を築き,無敵の5世道知とともに本因坊家の優位を不動のものとした。9世察元は時の6世井上春碩(しゆんせき)因碩(1707‐72)と名人位を争い,紛争をきわめた争碁に勝ち念願の名人となり,本因坊家中興の祖といわれる。…

※「本因坊秀栄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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