日本大百科全書(ニッポニカ) 「本庄光郎」の意味・わかりやすい解説
本庄光郎
ほんじょうこうろう
(1907―1995)
写真家。大阪市生まれ。シュルレアリスムなどの前衛芸術から強い影響を受け、ヌード作品を中心に独自の作風を展開した。大阪大倉商業学校を卒業後、写真活動を始め、1935年(昭和10)に関西アマチュア写壇の主導的団体として知られた浪華(なにわ)写真倶楽部(クラブ)へ入会。37年、ハイ・コントラストの技法(印画紙の画面から中間的な階調を省略し、黒と白だけで表現する方法)により人体の輪郭を力強い光の帯として描出した作品「光る曲線」で浪華写真倶楽部展推薦賞受賞。同年シュルレアリスムへの傾倒を深めていた浪華写真倶楽部メンバーの平井輝七(てるしち)(1900―70)、花和銀吾(1894―1957)らと「アバンギャルド・造影集団」を結成。光と影による非具象的なイメージを作品化した『夢の再生装置』(1938)、『意識の流れ』(1940)などを発表。
45年、第二次世界大戦下大阪大空襲で被災し、それまでの撮影ネガ、オリジナル・プリントの多くを焼失。以後、兵庫県西宮市へ移住。46年(昭和21)第二次世界大戦中に活動を中止していた浪華写真倶楽部の再建に尽力。戦後まもなくから、造形性を重視したヌード作品の撮影に一貫して取り組む。大阪湾岸の地盤沈下で水没しかかった大阪市西淀川区の旧軍需工場跡など、廃墟化した特異なシチュエーションで多くの作品を撮影した。また、スロー・シャッターや、マルチストロボ(高速で間歇(かんけつ)的に連続発光できるストロボ装置)を使い、ヌードに動きをとり入れ、空間と時間の一体化を追求した作品群は、海外でも高い評価を得た。54年ドイツのザールブリュッケンで開催された「主観的写真 2」展に出品。58~65年イギリスの写真年鑑『フォトグラフィ・イヤー・ブック』Photography Year Bookに毎年作品を掲載。60、64、65年にアメリカの年鑑『USカメラ』US Cameraに作品掲載。76年全日本写真連盟創立50周年記念功労賞、89年(平成1)日本写真協会功労賞、92年兵庫県文化賞受賞。
[大日方欣一]
『『ヌード・スペース・タイム 本庄光郎写真集』(1992・東方出版)』▽『「小石清と浪華写真倶楽部」(カタログ。1988・西武百貨店)』▽『「戦後写真・再生と展開1945―55」(カタログ。1990・山口県立美術館)』