杉村治兵衛(読み)すぎむらじへえ

改訂新版 世界大百科事典 「杉村治兵衛」の意味・わかりやすい解説

杉村治兵衛 (すぎむらじへえ)

江戸前期の浮世絵師生没年不詳。延宝年間(1673-81)末から元禄年間(1688-1704)末にかけて活躍した。杉村は椙村とも,通称の治兵衛は次兵衛,次平とも記した。名は正高。《赤穂義士親類書》に村松喜兵衛のいとこ(〈従弟分〉)として登場するところから,武家の出と知られる。江戸通油町に住した。浮世絵の草創期に菱川師宣とその一派に対抗しえた,ほとんど唯一の人気絵師。艶麗な人物描写を得意とし,横顔の輪郭線を〈く〉の字形につくる顔貌表現に特色を示す。時様の風俗画,ことに春画に傑作が多い。無署名版画には画中人物の着衣の模様などに〈杉村〉〈次平〉などと隠し落款を入れることがある。代表作は《大和風流絵鑑》(版本,1684),《小式部内侍》(一枚絵,大々判墨摺筆彩,リッカー美術館)など。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉村治兵衛」の意味・わかりやすい解説

杉村治兵衛
すぎむらじへえ

生没年未詳。江戸の浮世絵師。初期浮世絵版画において、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)と並称される重要絵師。従来、師宣画と推定されていた浄瑠璃絵(じょうるりえ)や風俗画の多くは治兵衛画とすべきであることがわかり、近年評価が急速に高まった。赤穂(あこう)浪士村松喜兵衛の養父九太夫の甥(おい)で、名は正高、治信(はるのぶ)。治兵衛は俗称。通油町(とおりあぶらちょう)に住む。師宣よりやや遅れて作画を始め、1680年(延宝8)ごろから約20年間活躍。浄瑠璃絵、風俗画を中心とする一枚絵、春画組物、艶本(えんぽん)、絵本浮世草子などに雄筆を振るう。うねるような描線で、丸みのある肉感的な女性を墨一色で描出、生動感あふれる作品が多い。署名のある作品は少ないが、画中にしばしば隠し落款を入れるのを特色とする。肉筆画はほとんどない。代表作に『遊歩美人』『高安通(たかやすがよ)い』『浄瑠璃十二段草子・外の管絃(かんげん)の段』、絵本『大和風流絵鑑(やまとふうりゅうえかがみ)』(1684)などがある。

[浅野秀剛]

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朝日日本歴史人物事典 「杉村治兵衛」の解説

杉村治兵衛

生年:生没年不詳
江戸前期の浮世絵師。俗称治兵衛(次兵衛,次平とも)。赤穂浪士村松喜兵衛の養父の甥という。住所は江戸の通油町と伝える。浮世絵草創期の重要絵師のひとり。延宝(1673~81)末期から艶本・絵本を中心とした墨摺の版本に挿図を寄せ,菱川師宣に次ぐ浮世絵師として活躍している。続く天和(1681~84)から元禄(1688~1704)末期にかけては,墨摺の春画揃物や一枚絵などを発表,師宣の画風と酷似するが,幾分異なる肉感的な美人画表現で支持を得た。治兵衛の作品に署名を伴うものは少ないが,一枚絵の画中には「杉村」「次平」などと隠し落款があり,これによって師宣作品と区別できる。

(内藤正人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉村治兵衛」の解説

杉村治兵衛 すぎむら-じへえ

?-? 江戸時代前期の浮世絵師。
浮世絵版画初期に菱川師宣(ひしかわ-もろのぶ)とならび称された。延宝(1673-81)末ごろから元禄(げんろく)ごろ江戸で活躍。絵本や浮世草子の挿画,大判の一枚摺(ず)り版画などが知られる。名は治(春)信,正高。通称は次兵衛,次平とも。作品に「大和風流絵鑑(えかがみ)」(絵本)など。

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