江戸前期の浮世絵師。浮世絵草創期を代表する画家で、菱川派の祖。安房(あわ)国平群(へぐり)郡保田(ほた)村(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町)の縫箔師(ぬいはくし)菱川吉左衛門の子。俗称吉兵衛、晩年薙髪(ちはつ)して友竹(ゆうちく)と号す。1670年(寛文10)ごろにはすでに江戸で浮世絵師として活動しているが、それ以前の習作時代や師系についてはつまびらかでない。後年自ら「大和絵師(やまとえし)」と称していることから、土佐派系の町絵師の流れを基調として、漢画系の諸派や中国版画も吸収、菱川様(よう)といわれる新様式をくふうしたものと思われる。その寛闊(かんかつ)にして優美、洗練された描線と彩色、確固適切な構図による時様風俗描写は、世に称賛されて浮世絵の開祖名人の名をほしいままにした。
100種以上の絵本・挿絵本、50種以上の艶本(えんぽん)を残し、枕絵(まくらえ)・名所絵・浄瑠璃絵(じょうるりえ)の組物もある。肉筆画も画巻・屏風(びょうぶ)・軸物など相当数の作品が確認されており、その人気と旺盛(おうせい)な活動を知ることができる。また師房(もろふさ)(長男)、師重(もろしげ)、師平ら多くの門人を育てて工房製作も行い、芝居町と遊里の二大悪所や、上野・隅田川などの行楽地に集う市井の人々が、多量に、生き生きと、ふさわしい新様式で描出されていった。師宣が浮世絵の始祖であるか否かの論議はいまだ決着をみないが、少なくとも師宣は浮世絵版画の祖であり、それ以上に浮世絵派の原様式を創成した功績は大きく、その意味で浮世絵派の祖ということができよう。おもな作品に『吉原の躰(てい)』(墨摺(すみずり)12枚組)、『浮世続(うきよつづき)』(墨摺絵本、1682)、『北楼(ほくろう)及び演劇図巻』(一巻、東京国立博物館)、『見返り美人』(一幅、同上)などがある。生地に菱川師宣記念館がある。
[浅野秀剛]
『楢崎宗重解説『浮世絵大系1 師宣』(1974・集英社)』▽『『肉筆浮世絵2 師宣――菱川派・懐月堂派・寛文美人』(1982・集英社)』
江戸初期の画家。浮世絵の確立者で,菱川派の祖。安房国保田村(現,千葉県鋸南町)の繡箔(ぬいはく)師の子として生まれ,若くして江戸に出て画技を学んだ。通称吉兵衛,晩年薙髪して友竹と号した。狩野派,土佐派など本格的な流派の画法を学び,寛文年間(1661-73)興隆期の江戸の大衆出版界に身を投じて挿絵画家となった。多くの無名の絵師と異なり,彼は1672年(寛文12)刊の絵入り本《武家百人一首》に江戸の挿絵画家としてはじめて署名を入れ,またしばしば大和絵師と自称して伝統的な大和絵の継承者を自認した。生涯に作画した絵本,挿絵本は150種以上にのぼり,《伽羅(きやら)枕》に代表される好色本のほか,《岩木絵づくし》《美人絵づくし》などの絵づくし類,《江戸雀》《東海道分間(ぶんけん)絵図》などの名所案内記,さらには金平(きんぴら)本や仮名草子,和歌書などと,取材の範囲は多方面にわたった。彫刻刀が刻む荒削りな線描と,墨摺による白と黒との対比を強調した師宣の版画表現は,率直な明快さを愛する江戸人の美意識を代弁するものであり,〈菱川やうの吾妻俤(あずまおもかげ)〉と俳諧に詠まれたように独自の美人画様式は,大衆的な支持を受けて大いに流行した。やがて版画を文章に従属した挿絵から解放し,冊子本という形式からも独立させて一枚絵の鑑賞版画を生むに至るが,なお12枚一組の揃物として発表するにとどまった。代表作に《よしはらの躰》(東京国立博物館),《上野花見の躰》(ボストン美術館)がある。また師房(長男),師重,師平ら多くの門弟を育てて一派をなし,肉筆画の工房制作によって歌舞伎,遊里,上野や隅田川の風俗などを主題として,屛風画,掛幅,画巻の諸形式に類型的な作品を大量生産した。その中で《歌舞伎(中村座内外)図屛風》《見返り美人図》(いずれも東京国立博物館)などは師宣自身による作品と推定されている。版画,肉筆画の両分野にみずから開発した風俗画様式の普及を徹底させた師宣は,以後発展する浮世絵派の実質的な開祖,元祖と呼ぶにふさわしく,多大の影響を後世に及ぼした。
執筆者:小林 忠
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(浅野秀剛)
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江戸前期の浮世絵師。江戸浮世絵の開祖とされる。安房国平群郡(現,南房総市)の縫箔(ぬいはく)師の家に生まれる。俗称吉兵衛。画系は不明だが,土佐派・長谷川派・岩佐又兵衛風・漢画などを自得し,みずから大和絵師・日本画師と称して独自の画風を確立した。版本では1671年(寛文11)刊の「私可多咄(しかたばなし)」(無款)が早く,以後「吉原恋の道引」(1678),「月次(つきなみ)のあそび」(1680),「浮世続絵尽」(1682),「美人絵づくし」(1683)など多数に描く。また「見返り美人図」など,吉原・歌舞伎・江戸名所を描いた肉筆画の作品も多く残している。こうした作品から菱川様の人気が高まり,一枚絵も描かれ,当時流行の絵画として浮世絵の名がつけられた。
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[浮世絵版画の独立]
江戸における大衆向け絵入り版本の需要は,はじめもっぱら上方版の輸入によってみたされていたが,明暦3年(1657)の大火以後の都市復興の活況の中で,江戸の版元(地本問屋)による版行もさかんとなり,版下絵師も数多く育てられることとなった。その一人として成長した菱川師宣は,仮名草子や好色本を中心にすぐれた挿絵を提供し,本の中に占める挿絵の比重を拡大していった。すなわち,文章は版面の上段5分の1ほどの狭い枠内におしこめられていき,下方の広いスペースには,めりはりの強い描線による明快で優麗な風俗描写が展開されるようになる。…
…これに対し,創造の意欲を示したのは民間の側である。 上方で流行した風俗画は,寛文(1661‐73)のころになると,新興町人の都市である江戸にその場所を移して,より量産に適した版画に新しい展開の道を見いだすようになり,菱川師宣による浮世絵が出現した。呉服商雁金屋出身の尾形光琳は,上方の上層町衆の芸術的伝統を継いで,宗達の装飾画風をより知的に洗練させた。…
…南房総国定公園に含まれる保田,勝山の海岸は大正時代からの海水浴場である。日蓮自筆の《愛染不動感見記》(重要文化財)を伝える妙本寺や行基の開山といわれる日本寺があり,保田は江戸時代の浮世絵師菱川師宣の出身地である。内房線が通じる。…
…江戸時代の芝居絵本。菱川師宣筆。1678年(延宝6)刊。…
…すなわち桃山時代から江戸時代初頭にかけての肉筆風俗画では,はじめ〈洛中洛外図〉や〈京名所図〉などの屛風画の一部に,北野神社社頭や四条河原の歌舞伎小屋が描き込まれ,ついで歌舞伎小屋とその周辺にくりひろげられる風俗事象を活写した〈歌舞伎屛風〉が成立する。こうして芝居絵は,いわゆる近世初期風俗画の重要な部分をになうことになるが,残された多くの作例の中から今かりに《阿国歌舞伎草紙》(大和文華館),《阿国歌舞伎図屛風》(山本家),《采女(うねめ)歌舞伎図巻》(徳川黎明会),《若衆歌舞伎図屛風》(大津賀家),そして伝菱川師宣筆《歌舞伎図(中村座内外図)屛風》(東京国立博物館)という各時期の代表的な作例をたどってみると,お国歌舞伎から遊女,若衆,そして野郎歌舞伎へと展開した初期歌舞伎の様態の変遷を,一目して了解することができる。芝居絵が,単に美術鑑賞の期待にこたえるばかりでなく,歌舞伎研究の貴重な画証資料として尊ばれるゆえんである。…
※「菱川師宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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