来縄郷(読み)くなわごう

日本歴史地名大系 「来縄郷」の解説

来縄郷
くなわごう

かつら川下流域および御玉おだま川・石部いしべ川流域の現高田たかだ玉津たまつ美和みわ・来縄・払田はらいださかいかなえ新栄しんえいもり佐野さの小田原こだわら地区に比定される。この範囲は律令制下の来縄郷内に成立した都甲とごう庄・草地くさじ庄を除いた地域にあたる。宇佐宮大宮司家が領家職を帯する宇佐宮領の庄園で、下宮造替料所・御供田・御菜免ならびに下宮灯油料に充てられた。またほかに小山田社免散在名石丸いしまる名六筆三町六段二〇代も存在した(正平二五年二月二七日「小山田社免石丸名坪付注進状」小山田文書)。「宇佐大鏡」によると田数三五〇町。豊後国弘安田代注進状・豊後国弘安図田帳ではともに三〇〇町で、うち本郷ならびに名二二七町、吉久よしひさ名一八町、久末ひさすえ名五町となっている。仁治二年(一二四一)の散田帳によれば一〇三名あったというが(年月日未詳「宇佐宮神領次第案」到津文書)、余名・吉久名・久末名・内小野名など約二〇の名や村しか確認できない。

「神用調整之要職」とされる郷司は、建保六年(一二一八)から応永二九年(一四二二)まで確認される(建保六年二月二二日「来縄郷司御炊殿雑仕差符」永弘文書、応永二九年六月二日「大宮司家専使吉用明兼奉書」同文書)。建保六年時点の郷司は宇佐宮弁官日下部宿禰であるが、以後神官たねとしを経て大友家二代親秀に寄進されたあと、親秀の三男で吉久名の地頭野津原能泰に譲与された。その後遠江式部大夫女子、高田とくさうまろを経て大友庶家戸次頼時に与えられ一族九人に分与されたという(年月日未詳「来縄郷司職福成・吉久名相伝次第」松成文書)。暦応三年(一三四〇)二月、宇佐宮御装束所惣検校小山田宇貞は郷司職の相伝知行を申立て、頼時の乱妨を止めるよう訴えた(「大神宇貞申状」小山田文書)。同年五月八日、仁木義長は頼時に対し、鎮西管領府に代官を出頭させ弁明するよう命じているが(「仁木義長書下」同文書)、以後の経緯は判明しない。宇佐宮太大工小山田貞遠が文治年間(一一八五―九〇)に作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、西大門外置路甃一丈ほか三件の豊後一国役分が割当てられている。以後この指図は国貞・為貞を経て弘安年間(一二七八―八八)には貞行に相伝利用されているが、御殿東一間半の加筆が認められる。神事では五月会の乗尻饗膳・相撲饗役を勤めている(応永三〇年四月日「宇佐宮行幸会等諸役支配注文」矢野文書)。このほか下宮御炊殿の雑仕女・加用各一人の差出しを命じられている(前掲御炊殿雑仕差符、貞和四年一二月二九日「宇佐保範得分物注進状」到津文書)


来縄郷
くなわごう

和名抄」にみえる郷。国東郡六郷の一つ。道円本・高山寺本では「来綱」とあるが、東急本では「来縄」とある。「宇佐大鏡」によると奈良時代に八幡宮(宇佐宮)に施入された封戸(三国七郡御封)のうち、国崎くにさき郡六五烟は「安岐・武蔵・来縄郷」に置かれていた。長元元年(一〇二八)三月二三日の大宰府解(類聚符宣抄)によると当郷内にあった宇佐宮の厩が同月一四日に焼亡し、神馬三頭が焼け死んだという。安元二年(一一七六)二月日の八幡宇佐宮符(奈多八幡縁起私記)で宇佐宮は当郷司ほかに対して行幸会「綾御船水手」(各郷二人ずつ)参勤を求めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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