日本歴史地名大系 「来縄郷」の解説
来縄郷
くなわごう
- 大分県:豊後高田市
- 来縄郷
「神用調整之要職」とされる郷司は、建保六年(一二一八)から応永二九年(一四二二)まで確認される(建保六年二月二二日「来縄郷司御炊殿雑仕差符」永弘文書、応永二九年六月二日「大宮司家専使吉用明兼奉書」同文書)。建保六年時点の郷司は宇佐宮弁官日下部宿禰であるが、以後神官たねとしを経て大友家二代親秀に寄進されたあと、親秀の三男で吉久名の地頭野津原能泰に譲与された。その後遠江式部大夫女子、高田とくさうまろを経て大友庶家戸次頼時に与えられ一族九人に分与されたという(年月日未詳「来縄郷司職福成・吉久名相伝次第」松成文書)。暦応三年(一三四〇)二月、宇佐宮御装束所惣検校小山田宇貞は郷司職の相伝知行を申立て、頼時の乱妨を止めるよう訴えた(「大神宇貞申状」小山田文書)。同年五月八日、仁木義長は頼時に対し、鎮西管領府に代官を出頭させ弁明するよう命じているが(「仁木義長書下」同文書)、以後の経緯は判明しない。宇佐宮太大工小山田貞遠が文治年間(一一八五―九〇)に作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、西大門外置路甃一丈ほか三件の豊後一国役分が割当てられている。以後この指図は国貞・為貞を経て弘安年間(一二七八―八八)には貞行に相伝利用されているが、御殿東一間半の加筆が認められる。神事では五月会の乗尻饗膳・相撲饗役を勤めている(応永三〇年四月日「宇佐宮行幸会等諸役支配注文」矢野文書)。このほか下宮御炊殿の雑仕女・加用各一人の差出しを命じられている(前掲御炊殿雑仕差符、貞和四年一二月二九日「宇佐保範得分物注進状」到津文書)。
来縄郷
くなわごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報