翻訳|East Timor
インドネシア群島のほぼ中央、小スンダ列島の東端に位置するチモール島の東半分とインドネシア領西チモール内の小さな飛び地(オエクシ)、および北方の二つの離島(アタウロ、ジャコ)からなる国。正式名称は東チモール民主共和国Republica Democratica de Timor-Leste。英語ではDemocratic Republic of Timor-Leste。2002年5月20日に独立を達成し、「21世紀最初の独立国」として知られる。首都はディリ。面積1万4874平方キロメートル。人口約106万5000(2008推定)。
ポルトガルは1515年ころ初めてオエクシに上陸した後、しだいにチモール全島を支配下においた。18世紀には後発のオランダが台頭、数次の抗争を経て1904年には両国の間でチモールの東西分割が確定された。第二次世界大戦で1942~1945年に全島を占領した日本の敗戦により、オランダ領であった西チモールは独立したインドネシアの一部となったが、東チモールはそのままポルトガル領にとどまった。
1974年、宗主国ポルトガルのクーデターに伴い植民地独立容認が宣言されると東チモール内部には、(1)即時独立を目ざす「東チモール独立革命戦線(FRETILIN=フレティリン)」、(2)ポルトガルとの連携存続を唱える「チモール民主連合(UDT)」、および(3)インドネシアとの合併を目ざす「チモール民主人民協会(APODETI=アポデティ)」など諸政党が乱立した。やがて勃発(ぼっぱつ)した内戦を制したフレティリンは1975年11月27日、「東チモール民主共和国」の独立を宣言した。「赤いチモール」の独立を恐れたインドネシアは、1975年12月、東チモールに軍事侵攻、翌1976年7月にはこれをインドネシアの「第27番目の州」として併合する法律を公布した。武力併合下の東チモールでは、硬軟とりまぜたインドネシアの強権的支配にもかかわらず、国連をはじめとする国際世論に助けられつつフレティリンによる武装抵抗が続いた。
インドネシアによる東チモール併合既成事実化路線は、1998年5月、体制の腐敗と指導者の無能に対する大衆的抗議に直面して、インドネシア大統領スハルトが退陣を強いられたことで破綻(はたん)に陥った。後継大統領となったハビビは、国内外の民主化圧力に押されつつ、1999年1月、東チモール住民が拡大自治案を拒否した場合には独立を容認するという方針を打ち出した。同年8月の住民投票では、東チモール住民の78.5%は拡大自治案を拒否し、独立を選択した。インドネシアによる併合状況のなかで既得権を有する勢力は、事態を不満とする国軍勢力と結託して「民兵」組織を結成、独立派への無差別攻撃と破壊を繰り返し、一時は26万人もの難民が発生する事態となった。インドネシア政府が事態を沈静化させる能力を失っていることが明白になるに及んで、国連はオーストラリアを中心とする多国籍軍を投入した。ついで1999年10月には「国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)」が設立され、以後その下で、2001年8月制憲議会選挙、9月第二次暫定内閣発足、2002年4月大統領選挙を経て同年5月20日、独立記念式典が挙行され、「東チモール民主共和国」は正式に独立を達成した。また、この年に22万人以上の難民が帰還を果たした。
初代大統領となったシャナナ・グスマンは、圧倒的なカリスマ性と大衆的支持を誇るが、憲法上の権限はかなり限定的で、かつグスマンの対インドネシア和解路線に批判的な初代首相アルカティリMari Bin Amude Alkatiri(1949― )との不和も政治不安の懸念材料であった。2006年4月~5月には待遇改善を求める兵士のデモが暴動に発展し、国際治安部隊がオーストラリア、ポルトガル等から派遣された。この一連の騒乱の責任をとる形でアルカティリは2006年6月辞任、7月に外相のホルタが首相となった。2007年には大統領選挙が行われ、ホルタが他候補に大差をつけて当選、5月20日に第2代大統領に就任した。さらに同年6月末に行われた選挙で与党のフレティリンが大幅に勢力を後退させ、グスマンが党首を務める東チモール再建国民会議(CNRT)がチモール社会民主協会(ASDT)ほか2党と連立を結成、8月にグスマンは首相に就任した。
一院制(任期5年)の国民議会は全国1区の比例代表制で、2001年総選挙時の定数が88であったが、2006年制定の議会選挙法により定数65に変更された。元首は大統領で任期は5年。地方行政区は13県に分かれている。おもな政党はフレティリン、東チモール再建国民会議、チモール社会民主協会、社会民主党(PSD)、民主党(PD)などである。2002年7月ポルトガル語諸国共同体(CPLP)に、同年9月国連に加盟。2012年までにASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)加盟を目ざしている。
独立の達成は、四半世紀にわたる東チモール人民の宿願ではあったが、反乱勢力による大統領襲撃事件(2008)など政情不安も抱え、困難な国づくりを強いられている。経済的にも東チモールの国内総生産(GDP)は3億2100万ドル(2007)で、1人当り国内総生産はわずか340ドル(2008推定)にすぎない。識字率も50%に満たず、平均寿命が男54.5歳、女56.6歳(2003)と、低水準にある。
主要産業は農業で国内総生産の4分の1を占めるが、米、トウモロコシなどの主食を輸入に頼っている。輸出用作物としてコーヒー豆の栽培に力を入れており、アメリカや日本などの飲食店でも扱われている。経済成長を牽引(けんいん)する産業としてチモール海のいわゆる「チモール・ギャップ」区域の海底油田開発に期待が寄せられている。そのうちのグレーターサンライズガス田はオーストラリアとの領海問題や東チモール国内の不安定な政情により開発が遅れていたが、2007年2月に東チモール議会はオーストラリアとのガス田開発に関する条約や関連協定を批准した。
住民はテトゥンなどのメラネシア系を中心にマレー系、中国系などで構成され、宗教はキリスト教が99%でカトリックが大半を占める。ほかにイスラム教が1%となっている。公用語はポルトガル語とテトゥン語で、インドネシア語や英語、多数の部族言語も使われるが、時代によって異なる言語教育を受けているため世代間の言語ギャップも大きい。
[黒柳米司]
『C・ブディアルジョ、リエム・スイ・リオン著、東チモールの独立に連帯する会訳『地図から消された東チモール――インドネシアの侵略 続く抵抗』(1986・ありえす書房)』▽『アムネスティ・インターナショナル日本支部編『小さな島の大きな戦争 東チモール独立運動をめぐる大規模人権侵害』(1989・第三書館)』▽『島田昱郎著『悲劇の島・東チモール――その自然と人びと』(1990・築地書館)』▽『仁井田蘭著『私たちの闘いを忘れないで――東ティモール最新レポート』(1992・柘植書房)』▽『青山森人著『抵抗の東チモールをゆく』(1996・社会評論社)』▽『青山森人著『東チモール・山の妖精とゲリラ』(1997・社会評論社)』▽『青山森人著『東チモール・抵抗するは勝利なり』(1999・社会評論社)』▽『石塚正英編『クレオル文化』(1997・社会評論社)』▽『田中淳夫著『チモール――知られざる虐殺の島』増補版(1999・彩流社)』▽『伊勢崎賢治著『東チモール県知事日記』(2001・藤原書店)』▽『ノーム・チョムスキー著、デイヴィッド・バーサミアン、藤田真利子訳『グローバリズムは世界を破壊する――プロパガンダと民意』(2003・明石書店)』▽『広島市立大学広島平和研究所編『人道危機と国際介入――平和回復の処方箋』(2003・有信堂高文社)』▽『川上隆朗著『インドネシア民主化の光と影――寛容なるイラスム大国』(2003・朝日新聞社)』▽『中野進著『アジアと自決権』(2008・信山社、星雲社発売)』▽『大石英司著『環太平洋戦争3 神々の島』『環太平洋戦争4 資源は眠る』(中公文庫)』
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