東下村(読み)とうしもむら

日本歴史地名大系 「東下村」の解説

東下村
とうしもむら

[現在地名]波崎町 ひがし町・なか町・西にし町・東仲島東ひがしなかじまひがし東仲島西ひがしなかじまにし西仲島にしなかじま東明神ひがしみようじん町・東明神前ひがしみようじんまえ明神前みようじんまえ浜新田はましんでん本新ほんしん町・海老台えびだい本郷ほんごう高野こうや別所べつしよ荒波あらく石津いしづ仲舎利なかじやり内出うちでしば松本まつもと舎利浜しやりはま

郡の最南端に位置し、三方を海河に囲まれる。北は矢田部やたべ村。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百五拾九石六斗壱升 遠下」とある。

江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は一五九石余で、松平氏が支配した。鹿島灘の鰯地引網漁の生産流通は関西の出稼漁業者や干鰯商人が担当したが、元禄八年(一六九五)に江戸出荷の干鰯売買をめぐり、江戸干鰯仲買商人と地元浜方の矢田部・東下、銚子(現千葉県)三ヵ村が仲買商人らの手数料増加に反発して、独自に鰯揚場地の開拓をもくろんだため紛争となり、村名主も加わって大規模な出入に発展した(「於江戸ニ干鰯揚売御訴訟一巻控帳」安藤家文書)


東下村
ひがししもむら

[現在地名]北区山田町東下やまだちようひがししも

志染しじみ川両岸の段丘を中心にした南北に細長い村で、北半の西隣は坂本さかもと村、南半の西隣は西下村。西下村とともに中世は八部やたべ郡山田庄下村のうちで、東西分村までは西下村に同じ。正保郷帳によると東下村の高三六八石で、幕府領。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では村高のうち一四〇石余が下総古河藩領、二一三石余が幕府領、四石余が朱印地(明要寺領)、一石余が八幡宮・同宮神主除地、一斗余が福伝ふくでん(福田寺)除地。


東下村
ひがししもむら

[現在地名]北区淡河町勝雄おうごちようかつお

美嚢みなぎ郡に属する。志染しじみ川支流の淡河川下流域に位置し、西は西下村。有馬ありま街道が通る。古くは西下村とともに下村に含まれた。元禄郷帳に「古ハ下村」と注記されて村名がみえ、高三五二石余。天保郷帳では高三九二石余。明石藩領淡河組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると人数一七四・家数二七。池八(北谷池・横谷池など)、池林四、北草山(野山)・南大山(柴草山・西下村のうち)、小藪五・板橋三・自分山八。地神一二・毘沙門堂・大日社森・十王堂屋敷。天神社(現天満神社)は淡河庄六社の一つ(采邑私記)


東下村
ひがししもむら

[現在地名]大平村東下

土佐井つつさい村の南東西友枝にしともえだ村の東、東友枝川下流域に位置し、雁股かりまた山から北に延びる丘陵の先端部に立地する。江戸時代の領主変遷土佐井村に同じ。初め東上村と合せ友枝村(東友枝村)一村であったが、のち上・下に分立したとみられる。元和八年人畜改帳には東友枝村がみえ、給人分で、家数二八七・人数五二三(うち惣庄屋一・百姓四六・名子一二四)、牛五八・馬三二。正保国絵図には友枝とみえ、高一千二〇〇石余(東上村の高を含むとみられる)。元禄豊前国高帳では「古ハ友枝村」と注された東下村がみえ、高六七三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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