東空閑村
ひがしこがむら
[現在地名]有明町大三東
大野村の南東に位置し、東部は海に臨む。古城元・江城・桜馬場などが残る一帯は東空閑城とよばれ、有馬氏の家臣の古賀越後守が在城したと伝える。境松川は外堀の役割を果したという。フロイス「日本史」には古賀殿が有馬の国主の家臣で、堅実で勇敢なカピタンであると記される。村名は西方の古賀村(現長崎市)に対して東空閑村と称するようになったものであろう。江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「空閑」とみえ、高四九〇石余。元和二年(一六一六)の大村領預地村役人証文(大村見聞集)には三会村のうち「古賀さし 神右衛門」とみえ、当初は三会村のうちとして把握されていた。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では東空閑村として高三五六石余、東空閑内として浜口村一九五石余・苅木村一六一石余が記される。寛文四年(一六六四)の高力高長領知目録(寛文朱印留)には「東穴閑村」とある。松平主殿頭領地島原領図(長崎図書館蔵)では東空閑村とともに枝郷として苅木名が記されることから、浜口村が本郷であったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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