東青木村(読み)ひがしおうぎむら

日本歴史地名大系 「東青木村」の解説

東青木村
ひがしおうぎむら

[現在地名]東灘区青木一―二丁目・同四―五丁目・北青木きたおうぎ一―三丁目・本山南町もとやまみなみまち三―四丁目・深江北町ふかえきたまち五丁目・深江本町ふかえほんまち四丁目・深江南町ふかえみなみまち五丁目

深江村の西、大阪湾に面する沖積地に位置する。中世山路やまじ庄内にあった。永禄一二年(一五六九)一二月吉日の山路庄公事銭取納帳案(高井文書)に青木村分の項があり、「平野」「中在家」「中ノ内」などの地名や、東青木と肩書された与五郎が記される。江戸時代には一部が慶長一九年(一六一四)片桐貞隆(「片桐貞隆宛知行目録」杉原家文書)、元和三年(一六一七)大和小泉藩(片桐貞隆)(摂津一国御改帳)。残りは元和三年幕府領村上孫左衛門預を経て同年尼崎藩領となり(摂津一国御改帳、「大垣藩地方雑記」岐阜県立図書館蔵)、元禄郷帳では尼崎藩と旗本青山兵部幸澄(尼崎藩主青山氏分家)領に分れる。


東青木村
ひがしあおきむら

[現在地名]富浦町青木

西青木村の東に位置する。江戸時代初頭までは青木村一村であったが、元和検地時に東・西二村に分立した。正保郷帳に村名がみえ、田高二三〇石余・畑高五七石。旗本三枝守全領(寛永一五年父守昌の時から)。以後の領主変遷多田良たたら村に同じ。寛政五年(一七九三)の村明細帳(忍足家文書)によると二八七石余の反別は二四町四反余(田一七町八反余・畑六町六反余)、取米一〇二石余・取永六貫六七一文余。本高のうち二石余は山高。年貢津出場は那古なご(現館山市)で、一里。用水深名ふかな村内の川から引いているが、「細川故旱魃之節相届キ不申候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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