松之木村(読み)まつのきむら

日本歴史地名大系 「松之木村」の解説

松之木村
まつのきむら

[現在地名]高山市松之木町・西洞町にしほらまち曙町あけぼのまち日の出町ひのでまち長坂町ながさかまち東山町ひがしやままち

三福寺さんふくじ村の南にあり、山口やまぐち(現山口谷川)が村内で大八賀だいはちが川に合流する。西の高山から長坂峠を越えると当村へ出る。高山からは半里。三福寺村上野うわのにのぼって町方まちかた(現大野郡丹生川町)へ越えるまこも峠には、享保(一七一六―三六)頃建てられた一里塚が残る。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では大八賀郷に松木まつのき村とみえ、三福寺村とともに高付される。


松之木村
まつのきむら

[現在地名]長島町松之木

長島輪中の最北端伊尾いび(現揖斐川)の東岸堤防沿いにあり、南は杉江すぎえ村に接する。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)大井実春に賞賜された「香取五ケ郷」のなかに松之木も含まれると思われる(三国地志)。中世長島一向一揆の拠点として、ここに松之木砦があり、森小一郎が支配した(五鈴遺響)。西方香取かとり(現多度町)方面からの織田信長軍への要衝であったが、天正二年(一五七四)七月一三日「西は賀鳥(香取)口、佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊予守・同右京助、蜂屋兵庫頭、松之木の渡り一揆相支へ候を、と川を乗渡し、馬上より数多切捨て候なり」(信長公記)とあり、この時落城した。その遺構は明治の木曾三川河川改修工事により長良ながら川に水没した。


松之木村
まつのきむら

[現在地名]八潮市松之木・新町しんまち

松野木・松ノ木とも記す。古綾瀬ふるあやせ川の氾濫原の沖積地に位置し、北は伊草いぐさ村。鎮守稲荷神社に松の木が繁茂するのが村名の由来と伝える。田園簿には松ノ木村とみえ、田方一〇五石余・畑方二八石余、幕府領領主変遷つる曾根そね村と同じ。天保六年(一八三五)の八条領村鑑(小沢家文書)によると、貞享元年(一六八四)の検地で高一七五石余、反別は田方一四町八反余・畑方六町五反余、用・排水は八条用水組合・古利根川中川筋藻刈組合・綾瀬川筋藻刈組合に所属。


松之木村
まつのきむら

[現在地名]上越市西松野木にしまつのき

本長者原もとちようじやはら新田の南東、別所べつしよ川右岸に位置。正保国絵図に松木村とみえ高四二八石余。延宝七年(一六七九)越州四郡高帳では四三九石四斗余。天和三年郷帳によると新田分を含め四七九石四斗余、うち野高一石五斗三升三合・漆高一石四斗三升。同年の検地帳(「三郷村誌」所引)に記されている地名のうち「しゆけん」は修験で山寺三千坊との関係が考えられる。「そうしふん」は荘司分、「らんとう原」は墓のあった原であり、「ろうのくぼ」は牢の窪で、水牢があったという伝えがある。伊勢地は伊勢神宮領であったことを物語るか。宮の下・寺の下・宮の前・すわのだん・宮の内・宮のくぼは社寺との、たて(館)・ぶたい(舞台)は中世城館とのかかわりを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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