松ノ木村(読み)まつのきむら

日本歴史地名大系 「松ノ木村」の解説

松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]立川町肝煎きもいり

立谷沢たちやざわ川中流左岸に位置し、北は肝煎村、南は鉢子はちこ村。東は立谷沢川を隔ててなか村、西背後はなだらかな羽黒台地。松木村・松野木村とも記された。立谷沢七ヵ村の一村。正保郷帳および正保庄内絵図(本間美術館蔵)に松木村とみえ、田一七四石余・畑一四石余。寛政四年(一七九二)の肝煎重助控(斎藤文書)には松野木村とあり、高一七三石余、免四ツ五分。弍郡詳記も同高・同免。家数は天明六年(一七八六)三二軒(「七ヶ村家数改帳」斎藤文書)、寛政八年三五軒、男一〇四・女七八、馬一一(「七ヶ村高其外明細帳」同文書)。弍郡詳記では三二軒、小名として中屋敷なかやしき、枝郷(須)部野べの新田を記す。


松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]牧村東松ひがしまつ

飯田いいだ川左岸、荒井あらい村の上流でひるこ街道上にある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「山田因獄介分高梨分下条玄蕃分川田喜三郎分松ノ木村 中」とあり、本納一六石五斗五升・縄高四七石六斗五升五合、家五軒・一八人男女。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では「松之木村」とあり、高六二石二斗余。天和三年郷帳では高八三石六斗余、うち山高二石三斗八升四合・青苧高三石二斗六升七合、反別田四町四反余・畑屋敷五町六反余・山林五町七反余・青苧畑三反余、家数一二。


松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]上石津町三ッ里みつさと

牧田まきだ川上流左岸にあり、北はみや村。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に松之木村とみえ、「仁ノお」「めくらたいら」「す谷」分として合せて四斗余の年貢が割当てられている。元和九年(一六二三)の時・多良郷家付帳(東高木文書)による家数三六。元禄郷帳では高一八一石余で、旗本東高木領。正徳二年(一七一二)一〇月、当村および馬瀬まぜ村村民が岩須いわす村の山林を伐り倒し、山押領を企てたとして訴えられた。


松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 松木まつぎ

かみだいら村の北の山腹に位置し、松木川最上流域に立地する。松木とも記す。下福良掛三九ヵ村の一つで、尾八重組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として松之木とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑二反余(高二斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では「横尾山」に焼畑三三枚・二町四反余があり、その年貢米五斗余・代銀三三匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高二石九斗余。


松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]白水村中松なかまつ

御竈門おかまど(一一五〇メートル)の南西麓にあり、東は西中にしなか村、西は東下田ひがししもだ(現長陽村)、北は南黒川みなみくろかわ(現阿蘇町)、南は下中しもなか村に接する。中世には阿蘇社領南郷内中村に属し、文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)によれば、松木村は豆一斗を初穂米代として負担していた。近世は布田手永に属し、宝暦七年(一七五七)の布田手永手鑑によれば、高六三四石一斗余で、うち二八九石一斗余は本方御蔵納、残りは村山九郎次郎など三人の知行であった。


松ノ木村
まつのきむら

[現在地名]谷田部町松野木まつのき

小野崎おのざき村の南、小野川東岸に位置。元和二年(一六一六)谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高一〇一・一二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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