松本文三郎(読み)マツモト ブンザブロウ

20世紀日本人名事典 「松本文三郎」の解説

松本 文三郎
マツモト ブンザブロウ

明治〜昭和期のインド哲学者,仏教学者 京都帝大文科大学学長



生年
明治2年5月(1869年)

没年
昭和19(1944)年12月18日

出生地
石川県金沢市

学歴〔年〕
東京帝大文科大学哲学科〔明治26年〕卒

学位〔年〕
文学博士

経歴
東京専門学校、哲学館、国学院、立教大、東大などで教授。明治39年京都帝大文科大学設置とともに教授となり、インド哲学、仏教学を講じた。41年同学長となり、昭和4年退官。この間龍谷大、大谷大、高野山大に出講、日本大蔵経編纂を行った。13年東方文化研究所長。著書に「仏典結集」「極楽浄土論」「宗教と哲学」「弥勒浄土論」「達磨」「仏典の研究」「支那仏教遺物」「印度の仏教芸術」「東洋文化の研究」「仏典批評論」「仏教史の研究」「東洋の古代芸術」「仏教史雑考」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松本文三郎」の意味・わかりやすい解説

松本文三郎
まつもとぶんざぶろう
(1869―1944)

明治~昭和期のインド文化および仏教美術史研究の先駆的開拓者。金沢市生まれ。帝国大学文科大学(現、東京大学文学部)を卒業後、一高教授を経て、1906年(明治39)京都帝国大学文科大学(現、京都大学文学部)の開設委員となり、1908年からは7年余にわたり第2代学長の重責を果たした。引き続き印度(インド)哲学史講座担当教授として1929年(昭和4)まで京大に在任、その間、学士院会員に推挙された。さらに晩年の6年余は東方文化研究所(京都)所長の任にあたるなど、終始して徳望高き学界重鎮であり、また卓越した研究活動の組織者であった。

[大地原豊 2017年10月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本文三郎」の解説

松本文三郎 まつもと-ぶんざぶろう

1869-1944 明治-昭和時代前期のインド哲学者,仏教学者。
明治2年5月生まれ。39年京都帝大教授,41年同大文科大学長となる。昭和13年東方文化研究所長。「日本大蔵経」の編集,インド・中国の仏教遺跡調査にあたる。昭和19年12月18日死去。76歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。著作に「仏典結集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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