東洋の語は,現代日本語では〈トルコ以東のアジア諸国の総称,とくにアジアの東部および南部〉の意味で用いられるが,現代中国語では日本を意味し,両者はいちじるしく違う。もともと中国語として生まれた語が,日本語でも使われるようになり,やがて大きな語義変化が双方でおこったためであるが,その背景には,政治・文化の史的変化があった。
東洋という表現が中国書に初出するのは,汪大淵《島夷誌略》(元末の1349年に完成,刊本は明末)であるが,ここでは〈文萊は波羅,東洋のつきるところ,西洋の起こるところ〉とあり,この文萊は現在のブルネイをさすと解される。したがって福建省沿岸を出て東南アジア諸島へいたる〈航路〉を東洋の語で表現している。張燮(ちようしよう)《東西洋考》(明末の1616年に完成,翌年に刊行)は,〈西洋列国考〉(巻一~四)と〈東洋列国考〉(巻五)とに分類され,後者において呂宋(ルソン)から文萊(ブルネイ)までの6国(または6島ないし6都市)をあげているが,その順番は航路にしたがっている。なお日本は〈外紀考〉(巻六)のなかに紅毛番とともに記されている。以上の2著には地図は入っていない。
航路あるいは航路にふくまれる諸国・諸島を示す東洋の語が,東(ひがし)の洋(うみ)という〈海域〉をさすものとなるのは,M.リッチの《坤輿万国(こんよばんこく)全図》(1602,北京)である。〈大東洋〉が北アメリカ西海岸あたりに記され,〈小東洋〉が日本の東あたりに記されているが,〈東洋〉という独立した用法はない。この地図は漢字表記が初めて用いられた世界図で,〈亜細亜〉の表記もここに初出するが,後代への影響が大きく,この海域にふくまれる日本を東洋の語で表現する用法がここに始まる。清代に著された《東洋記》とか《東洋瑣記》の東洋は日本をさしている。日本でも,この用法がそのまま導入された。
語義が航路,海域,日本と変化したうえに,さらにもう一つ,日本語のなかで新しい変化が起こった。早いものでは本多利明《西域物語》(1798ころの写本)で,〈……東洋に大日本島,西洋にエケレス島と,天下の大世界に二箇の大富国,大剛国とならんことは慥(たしか)也〉とあり,ここでの東洋は日本より広義で,ほぼアジアと近い用法と解される。佐久間象山の有名な書簡(1854あるいは55)では,〈東洋道徳西洋芸,匡廓相依完圏模〉とある。漢学に造詣の深い象山は,旧来の東洋の語義とは明らかに違う語義としてすなわち少なくとも日本や中国をふくむ新しい範囲をさすものとして,東洋を用いた。ただ,この場合には,地理的な範囲ではなく,道徳という価値を共有する範囲として用いている(東洋道徳・西洋芸術)。
明治初年になると,オリエントあるいは東方(イースト)という英語の訳語として東洋があてられるようになる。日清戦争中に中等教育の教課として〈東洋史〉が新設され,政治・外交の場では〈東洋の平和〉がしきりに使われるようになった。ここでふくまれる地理上の範囲は,ほぼアジアと同じである。
→アジア
執筆者:加藤 祐三
高知県東端,安芸郡の町。人口2947(2010)。北縁は徳島県に接し,南東は太平洋に面する。中央部を南東流する野根川流域はかつては野根郷と呼ばれた。上流一帯は森林資源にめぐまれ,下流域では農業が行われる。河口の野根は,江戸時代は野根山街道の宿場でもあった。町域東端の甲浦(かんのうら)は天然の良港で,土佐国の東の玄関口として古くから重要視された。生見(いくみ)では早くから野菜の促成栽培が盛ん。近世初期に開発された白浜は,現在観光地となっている。海岸部は室戸阿南海岸国定公園に含まれ,国道55号線が走る。なお,野根と甲浦という歴史も地域性も異なる2地域が1959年に合体したため,町役場は両地区を交互に移動していたが,85年7月より中間の生見に移った。阿佐海岸鉄道線が通じる。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
高知県東端、安芸(あき)郡の町。徳島県境に位置し、紀伊水道に臨む。1959年(昭和34)甲浦(かんのうら)、野根(のね)の2町が合併して町制施行。国道55号、493号が通じる。1992年(平成4)に阿佐海岸鉄道阿佐東線が開通し、終点として甲浦駅が置かれたが、2021年(令和3)デュアルモードビークル(道路上、鉄道軌道上をともに走行できる車両)に転換され、現在はバス停留所となっている。北の甲浦はリアス海岸に位置する良港で、古くから土佐と上方(かみがた)間の航路の寄港地、また商港、漁港としても栄え、参勤交代の際の船出の地でもあった。神戸―土佐清水(しみず)間のフェリーが寄港していたが、2005年(平成17)に廃止された。野根川流域の上流では林業が、下流では米作、野菜促成栽培が行われる。ポンカンや小夏などの栽培が盛ん。野根は江戸期野根山街道の要駅で、かつてはブリ大敷(おおしき)網も行われていた。海岸一帯は室戸阿南海岸国定公園(むろとあなんかいがんこくていこうえん)域で、白浜の砂浜海岸は海水浴場、生見(いくみ)海岸はサーフィン場として知られる。10月の熊野神社祭(トントコ祭り)では、海上パレードが行われ、多くの人でにぎわう。面積74.02平方キロメートル、人口2194(2020)。
[正木久仁]
中国からみての一地域の呼称。14世紀以後の中国史にみられるが、時代によってその範囲は異なる。南海を東洋諸国と西洋諸国に分け、ボルネオ島のブルネイを基準に、その西岸から南岸、およびそれから西と南の諸国を西洋、ボルネオの東岸および東方の諸国を東洋といった。この区別は、宋(そう)代以後、海船が磁針を備え、西洋針路と東洋針路を用いたことによる。つまり、華南の海港を出て、針路を西にとって回る諸国のインドシナ半島からマレー半島、スマトラ島、ジャワ島、さらにインドあたりまでを西洋といった。針路を東にとる澎湖(ほうこ)島、台湾、フィリピン、モルッカ、スル島、パラワン島などを東洋とよんだ。ただし、近代中国で東洋はもっぱら日本をさす。
なお日本では、明治維新後から、西洋(欧米)に対する東洋ということで、アジア全域をさして用いている。
[星 斌夫]
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日本では西洋に対する概念として,ふつうアジア諸国の総称に用いられている。中国では13~14世紀頃から南海地方を東西に分けることによって用いられた名称で,フィリピン,モルッカ諸島,ボルネオ方面をさした。その後,台湾や日本も東洋に含まれたが,特に日本をさすようになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… 欧米によるアジア進出に対抗した〈興亜〉の流れと,日本の欧米化を願う〈脱亜〉の流れは,対立する二つの思想潮流であったが,両者とも〈亜細亜〉という漢字表記(その省略形も含む)を用い,これはやがて〈東亜〉〈大東亜〉という用語として継承された。
[アジアと東洋]
明治期には,もう一つ,orientまたはthe Eastの訳語として,〈東洋〉が登場する。もともと〈東洋〉は漢語においては〈東(ひがし)の洋(うみ)〉すなわち日本またはその近海の海を指す意味であり,日本でも幕末までは多くの人がこの用法を踏襲していたが,明治になると地理的には日本,中国,インドあたりまでを含み,とくに文化(宗教,思想,歴史)の共通性を強調する概念となる。…
…やがて西欧文明は,その兄文明であるイスラム文明を凌駕して世界征服の事業を押し進め,それは,19世紀から20世紀にかけて全地球的規模において完成するに至った。西欧文明によるこの世界制覇の結果,西欧文明中心主義に基づく〈哲学史〉の概念や〈哲学〉の概念が生まれ,また〈西洋〉対〈東洋〉の概念,すなわち“近代的進歩的な”西洋に対する“前近代的停滞的な”東洋という概念が成立した。そして,これらの概念が,学問的検討以前の暗黙の了解事項として世界的に流布することになった。…
…秦の始皇帝のとき前214年に南方を征服し,今日の広州に南海郡をおいたのは,そこが南海への連絡口だったからである。のちには南シナ海の南部からインド洋にわたる海域を南洋と称し,広州または泉州(福建省)から南に伸ばした一線によってこれを東西に分け,東洋,西洋といった。【日比野 丈夫】。…
… 平安時代に入ってから用いられた〈扶桑(ふそう)〉とか〈夫木(ふぼく)〉とかの日本国の別称も,もともと,中国古代神話において,東海のかなた太陽の出る所にあると信じられた大きな神木をさし,またその地をさしていた。中世から近世にかけて,日本の知識人は自国の異称に〈東海〉〈東洋〉〈東瀛(とうえい)〉〈東鯷(とうてい)〉などの語をそのまま用いたが,これらの異称は,いずれも東シナ海の東方に存在する島国という意味である。別に〈日東〉という異称も頻繁に用いられていた。…
※「東洋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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