日本大百科全書(ニッポニカ) 「林世功」の意味・わかりやすい解説
林世功
りんせいこう
(1841―1880)
琉球(りゅうきゅう)の士族。林世功は唐名(とうめい)で、琉球風の名のりは名城里之子親雲上(なしろさとぬしおやくもい)という。天保(てんぽう)12年12月24日生まれ。首里(しゅり)の国学(こくがく)に学んだあと、選ばれて北京(ペキン)の国子監(こくしかん)に留学、帰国後教育職を歴任した。明治政府による琉球王国の廃絶、すなわち沖縄県設置の画策に危機感を抱き、琉球救援を中国(清(しん)朝)に陳情する一団に加わり1876年(明治9)かの地に渡った。総理衙門(がもん)など要路に琉球の危機を訴え奔走したが、やがて故国では琉球処分(1879)が断行され王国は滅び、その翌年には明治政府と中国の間で分島案が協議されるに及んで絶望感を抱き、11月20日失意のうちに北京で自刃して果てた。39歳であった。「一死なお社稷(しゃしょく)の存するを期す」と辞世の句を残している。
[高良倉吉]