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筑後国 ちくごのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

筑後国
ちくごのくに

現在の福岡県南西部。西海道の一国。上国。もと筑前国とともに筑紫国であった。『日本書紀』継体天皇 21年の条には筑紫国造磐井 (いわい) が新羅と結んで大和朝廷に反したが,当国はその本拠地であった。

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デジタル大辞泉の解説

ちくご‐の‐くに【筑後国】

筑後

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百科事典マイペディアの解説

筑後国【ちくごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の福岡県南部。もと筑紫(つくし)。7世紀末ころに筑前・筑後2国に分けた。古くから文化が開け,一説に邪馬台(やまたい)国所在地。《延喜式》に上国,10郡。
→関連項目九州地方福岡[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

ちくごのくに【筑後国】

現在の福岡県南部を占めた旧国名。古くは筑前(ちくぜん)国(福岡県北西部)とともに筑紫(つくし)国を形成。律令(りつりょう)制下で分割され西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の久留米(くるめ)市におかれていた。鎌倉時代大友氏守護として関東から入部。南北朝時代九州探題の支配下にあったが、室町時代は在地豪族が割拠した。戦国時代に大友氏が勢力を増すが、1585年(天正(てんしょう)13)に島津氏が、ついで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が制圧した。江戸時代には久留米藩柳河(やながわ)藩、三池藩の3藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により三瀦(みずま)県となったが、1876年(明治9)に福岡県に編入された。◇筑前と合わせて筑州(ちくしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちくごのくに【筑後国】

旧国名。筑州。現在の福岡県南部。
【古代】
 西海道に属する上国(《延喜式》)。古くは筑紫国の一部であったが,律令制の成立とともに前後に分割され,その当初は筑紫後(つくしのみちのしり)国と称され,ついで筑後国となった。三潴(みぬま∥みむま),御井(みい),御原(みはら),山本,竹野(たかの),生葉(いくは),上妻,下妻,山門(やまと),三毛(みけ)の10郡を管し,国府・国分寺は御井郡(久留米市)に所在した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

筑後国
ちくごのくに

福岡県南部の旧国名。西海道(さいかいどう)の一国。『延喜式(えんぎしき)』の等級は上国で、遠国に属す。初め筑前国とあわせて筑紫(つくし)国といい、筑紫君の本拠地であった。7世紀末の律令(りつりょう)制の成立とともに前後に分割され、分割当初は筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)と称したが、のち筑後国となった。御原(みはら)、生葉(いくは)、竹野(たかの)、山本、御井(みい)、三潴(みぬま)、上妻(かむつま)、下妻(しもつま)、山門(やまと)、三毛(みけ)の10郡に分かれ、54郷(和名抄(わみょうしょう))が存在した。国府、国分寺は御井郡(久留米(くるめ)市)にあった。荘園(しょうえん)は、御原郡に三原荘(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領)、生葉郡に大石荘(観世音寺(かんぜおんじ)領)、竹野郡に竹野荘(西大寺領)、御井郡に草野荘(安楽寺領)、三潴郡に三潴荘(宝荘厳院(ほうしょうごんいん)領)、上妻郡に吉田荘(安楽寺領)、下妻郡に水田荘(安楽寺領)、山門郡に小河荘(宇佐宮領)、三毛郡に三池荘(近衛(このえ)家領)などがあった。
 鎌倉幕府が成立すると、東国御家人(ごけにん)の大友能直(よしなお)が守護として入部した。その後、守護職(しゅごしき)は大友氏から北条氏、少弐(しょうに)氏、宇都宮(うつのみや)氏を経て、鎌倉末期にはふたたび北条氏に移った。建武(けんむ)政権が成立すると、宇都宮冬綱(ふゆつな)が守護に任じられたが、南北朝の内乱には当国の国人(こくじん)層も北朝方、南朝方に分かれて争い、足利直冬(あしかがただふゆ)が九州に下向すると、北朝方、南朝方、直冬方の3勢力に分かれて混乱した。1359年(正平14・延文4)征西将軍宮懐良(かねよし)親王を奉じて北上した肥後の菊池武光(たけみつ)は、大保原(おおほばる)において少弐頼尚(よりひさ)を破り、さらに大宰府(だざいふ)を占領して北部九州を制圧した。しかし九州探題今川了俊(りょうしゅん)が九州に下向すると北朝方の反攻が始まり、征西将軍宮は矢部山中に追われた。室町時代になると、菊池氏と大友氏が守護職を争ったが、しだいに大友氏が優勢となり、大友氏が筑後を支配することになった。1578年(天正6)大友氏が日向(ひゅうが)耳川の戦いで島津氏に大敗を喫すると、国人層は大友氏から離反し、肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏の勢力が及ぶようになった。1585年には島津氏が侵入して当国を制圧したが、豊臣(とよとみ)秀吉の出兵によって撤退した。
 1587年九州を平定した豊臣秀吉は、北部2郡を筑前一国および肥前2郡とともに小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与え、毛利秀包(ひでかね)を久留米に、立花宗茂(むねしげ)を柳河(やながわ)に、筑紫広門(ひろかど)を福島(八女(やめ)市)に封じた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、西軍に属した毛利、立花、筑紫の各氏が改易され、小早川氏が備前(びぜん)に転封されて、田中吉政(よしまさ)が柳河に入り筑後一国を支配した。しかし吉政の子忠政(ただまさ)に嗣子(しし)がなかったため、田中氏は1620年(元和6)に断絶し、そのあと有馬豊氏(とようじ)が北部8郡21万石を与えられて久留米に入部し、南部2郡11万石はふたたび立花宗茂に与えられ宗茂は柳河に入部した。翌21年宗茂の甥種次(おいたねつぐ)が1万石を分与されて三池(みいけ)藩が成立したが、1806年(文化3)幕府に収公され、1868年(明治1)旧地に復した。また1668年(寛文8)には久留米藩の支藩松崎藩1万石が立てられたが、1684年(貞享1)廃藩となった。
 近世の筑後国は全国でも有数の穀倉地帯であり、商品作物としてはナタネ(菜種)やハゼ(櫨)などが広く栽培されていた。三池では18世紀の前半から石炭の採掘が行われており、手工業としては久留米城下の久留米絣(がすり)が有名であった。
 1871年(明治4)7月の廃藩置県によって、久留米、柳河、三池の各藩はそれぞれ県となり、同年11月三潴(みづま)県に統合された。1876年4月三潴県は肥前国9郡(佐賀県)を併合したが、同年8月にはこれを分離し、筑後一国は福岡県に編入されて現在に至っている。[柴多一雄]
『『福岡県史』全4巻(1962~65・福岡県) ▽竹内理三編『福岡県の歴史』(1956・文画堂) ▽平野邦雄・飯田久雄著『福岡県の歴史』(1974・山川出版社)』

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