立花氏(読み)たちばなうじ

改訂新版 世界大百科事典 「立花氏」の意味・わかりやすい解説

立花氏 (たちばなうじ)

筑後柳河藩主。豊後大友氏の支流。建武期,豊後守護大友貞宗の三男貞載が筑前宗像郡立花山城(現,福岡県糟屋郡新宮町立花)に拠って立花氏を称した。1565年(永禄8)立花鑑載(かねこと)が大友氏に背き討たれて断絶したが,70年(元亀1)大友宗麟戸次(べつき)道雪(鑑連(あきつら))を筑前守護職として立花氏を継嗣させ,勢力は糟屋郡一帯94ヵ村に及んだ。
執筆者: 道雪は高橋紹運(鎮種)の子宗茂養子とした。立花宗茂は87年(天正15)大名に取り立てられ柳河藩主となったが,関ヶ原の戦で改易された。のち旗本を経て陸奥棚倉藩主(3万石)となり,1620年(元和6)柳河に再封され(10万9600石),以来11代を経て明治維新を迎えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立花氏」の意味・わかりやすい解説

立花氏
たちばなうじ

南北朝から戦国時代にかけての筑前(ちくぜん)の大友氏支族。のちに筑後(ちくご)柳川(柳河)(やながわ)藩主となる。大友氏6代貞宗(さだむね)の子貞載(さだとし)は、筑前立花山城(福岡県糟屋(かすや)郡)に拠(よ)り立花氏を称した。貞載には子がなく、弟の宗匡(むねただ)が家督を継いだ。その子孫鑑載(あきとし)が1568年(永禄11)毛利氏に内応し大友氏に叛(はん)を謀り、大友宗麟(おおともそうりん)に討たれた。宗麟は一族中の戸次鑑連(べっきあきつら)を立花山城に移して、これを守らせた。鑑連は高橋鎮種(しげたね)(紹運(じょううん))の子を養子とした。これが立花宗茂(むねしげ)である。宗茂は1587年(天正15)柳川城主となり、関ヶ原の戦いののち一時所領を没収されたが、1620年(元和6)柳川城に復帰した。以来、子孫世襲して明治には伯爵となった。

[上田純一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立花氏」の意味・わかりやすい解説

立花氏
たちばなうじ

大友氏の一族。南北朝時代,足利尊氏に従い軍功のあった大友貞宗の子貞戴が筑前国糟屋郡立花に住して立花氏を称したのが始り。宗茂のとき豊臣秀吉に属し,筑後柳川を領した。関ヶ原の戦いには豊臣方に属したため,本領を没収されたが,慶長8 (1603) 年陸奥棚倉1万石を与えられ,元和6 (20) 年柳川 10万 9600石に復した。明治になって伯爵。また宗茂の弟直次を祖とする陸奥下手渡藩立花氏も関ヶ原の戦いには豊臣方に属して,本領を没収されたが,慶長8年 5000石を常陸柿岡に与えられ,文化2 (1805) 年には陸奥下手渡に移封。明治になって子爵に叙せられた。

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世界大百科事典(旧版)内の立花氏の言及

【大名】より

… ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。 (2)准国主とは,位階が従四位下に進むと国主の仲間入りをする大名で,立花氏(筑後柳川11万石余),丹羽氏(陸奥二本松10万石余),伊達氏(伊予宇和島10万石)の3家である。 以上はおもに外様大名(豊臣政権下では豊臣氏の家臣という点で徳川氏と対等であった大名)を処遇する呼び方と考えてよい。…

※「立花氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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