栃井村(読み)とちいむら

日本歴史地名大系 「栃井村」の解説

栃井村
とちいむら

[現在地名]美濃加茂市下米田町東栃井しもよねだちようひがしとちい

飛騨川沿いの河岸段丘上、西脇にしわき村の北に続く。対岸下川辺しもかわべ(現加茂郡川辺町)枝郷栃井村、中之番なかのばん(現同上)枝郷栃井村があり互いに向栃井むかいとちいとよんだ。慶長郷帳には幕府領で、とい村二五四石余とある。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩領でとちい村とある。正保郷帳によれば田方一七七石余・畑方七五石余・野年貢二石余。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)尾張藩領へ編入され、概高は二七二石余。慶安四年(一六五一)の男女一〇三、馬一〇。「濃州徇行記」によれば竹腰小伝次の給地で家数二八・男女一一六、馬六。

栃井村
とちいむら

[現在地名]川辺西栃井にしとちい

現川辺町と美濃加茂市境の飛騨川に沿って、近世中期以降加茂郡内に三村の栃井村が存在した。元禄郷帳に下川辺村枝郷で幕府領・高一九四石余の栃井村、中之番なかのばん村枝郷で旗本大島領・高四〇九石余の栃井村、独立村で尾張藩領・高二五四石余の栃井村が記され、天保郷帳でもほぼ同様の記載である。飛騨川東岸の現美濃加茂市に属する尾張藩領の栃井村はそのままで、下川辺村枝郷(幕府領)を西栃井村、中之番村枝郷(旗本大島領)を東栃井村とよび、栃井村と東西の栃井村は、お互いに向栃井むかいとちい村とよびあった。

栃井村
とちいむら

[現在地名]川辺町西栃井にしとちい

飛騨川右岸の河岸段丘上に位置する。元禄郷帳に中之番なかのばん村枝郷、旗本大島雲八光義領、高四〇九石余と記され、大島領の栃井村は一般に東栃井村と称した。貞享三年(一六八六)の栃井村由緒書(川辺町役場蔵)によると高三二七石余、家数七五・人数三九〇、馬二五。入会は川辺六ヵ村の納古のうこ山、船渡一。京都妙心寺末平田山禅原ぜんげん(現臨済宗妙心寺派)があり、文禄三年(一五九四)土岐又六という百姓が父田原式部のために建立開山は抜山。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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