桂城跡(読み)かつらじようあと

日本歴史地名大系 「桂城跡」の解説

桂城跡
かつらじようあと

[現在地名]吉田町桂

北西方から突出した丘陵の端、東・南方可愛えの川を見下ろす半独立丘にあり、三笠みかさ城・中山なかやま城とも称する。桂氏の居城で「高田郡村々覚書」に「高一町半、横五町、平壇三つを残す」とある。山頂大仙だいせん社を祀り、西南端に中山観音堂がある。東麓に元澄の祈願所と伝える真言宗西光さいこう寺・大慶だいけい(大桂寺)の跡が残る。

桂氏は毛利親衡の次男匡時がさか(現向原町)に居住し坂氏を称したが、その三代広秋の長子広澄が桂にいて桂氏の祖となった。広澄は大永三年(一五二三)毛利元就の本家相続の時、渡辺氏・坂氏ら一味が異母弟元綱を擁して謀反を起こした際、坂氏の兄にあたるため責任を感じて自害したことが「陰徳太平記」に詳述される。


桂城跡
けいじようあと

[現在地名]大館市字桂城

北側に長木ながき川を見下ろす台地上に立地。中世には浅利氏・安東(秋田)氏がおり、慶長七年(一六〇二)佐竹氏入部後、小場(のちに佐竹)義成が入り、以後その子孫が代々所預として居城した。桂城は浅利氏の旧城を修理したもので、元和六年(一六二〇)の佐竹領内支城破却の際も破却から免れる。宝暦九年(一七五九)の大館城絵図(栗盛文庫蔵)では、本丸東西九七間、南北五〇間三尺、二の丸東西二七八間三尺、南北六一間二尺、三の丸東西八二間、南北七五間、本丸堀東西南北折回三一四間、幅一一間となっており、城内に井戸四ヵ所をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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