日本歴史地名大系 「上桂庄」の解説
上桂庄
かみかつらのしよう
桂川が現松尾橋の下流で東に転じ、さらに現
荘園の開発領主は
とあり、津公・兼枝・則光と相伝の経緯を考えると、上桂庄は天暦年間(九四七―九五七)の成立と推定され、長徳三年、則光が中司職留保の条件で領家職を東三条院女房大納言局に寄進したことがわかる。中司職は下司職とほぼ同じ職で、以後この職は則光・則安の子孫に伝えられた。則安以降約二〇〇年間は史料の欠如で不明だが、その子孫と考えられる秦相用が鎌倉後期の文永年間(一二六四―七五)から史料に登場する。しかし南北朝内乱の終焉とともに、平安後期より続いてきた下司は消滅したようである。
上桂庄の田積は上桂庄検注目録によると、寛喜元年(一二二九)には総田数一六町半二〇歩のうち定田七町五段余で年貢三〇石余、寛元三年(一二四五)には総田数二二町二段半二〇歩のうち定田五町五段余で年貢米二三石余、定畑四町余であった。また建武元年(一三三四)一一月の年貢算用状(教王護国寺文書)によると、公田一一町一段八〇歩、不作及び河成を除いて定田七町四段八〇歩であり、東寺領の中では小荘に属する。
大納言局に寄進されて以後の領家職の伝領は、
と継承した。ところで阿闍梨清厳は七条院(高倉天皇の後宮で後鳥羽上皇母)の甥で母が七条院女房であった関係から、本所職を七条院に寄進したらしく、上桂庄は平安末期から七条院領となった。その後の本所職の譲渡関係を当庄御相伝系図から図示すれば次のようになる。
ところが四辻宮善統親王は後宇多上皇への譲渡とは別に、正応三年(一二九〇)一〇月、上桂庄を藤原氏女妙円に譲渡していたので、紛争と混乱を惹起した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報