日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃井儀八」の意味・わかりやすい解説
桃井儀八
もものいぎはち
(1803―1864)
勤皇の志士。諱(いみな)は誠(せい)。字(あざな)は中道、可堂と号す。武蔵(むさし)国榛沢(はんざわ)郡北阿賀野(きたあがの)村(埼玉県深谷(ふかや)市)に生まれ、初め同郡血洗島(ちあらいじま)村の渋沢仁山に学んだが、のち江戸の東条一堂の門に入り、那珂梧楼(なかごろう)、清河八郎とともに門下の三傑と称された。備中庭瀬(びっちゅうにわせ)藩主板倉氏に仕えたが、1863年(文久3)致仕して郷里に帰り、同郡中瀬村に私塾を開き子弟教育にあたるとともに、攘夷(じょうい)の同志と交わる。同年勤皇の志士と上州の名族岩松氏を盟主とする天朝組の結成を計画したが失敗、幕府に探知され川越藩に自首、江戸の福江藩邸に預けられ幽閉のまま62歳で病没した。1912年(大正1)正(しょう)五位を追贈。
[大村 進]